昨今、歴史学や政治学の世界で、「オーラル・ヒストリー」という言葉をよく見かけるようになり、本の書名にもそれを冠したものが増えてきた。また、「オーラル・ヒストリー学会」なる学会も成立している。
オーラル・ヒストリー(oral history)は「口述記録」とか「口述歴史」「口述史」と訳されているが、いずれも日本語としていまひとつ熟さない。そのためか原語のまま「オーラル・ヒストリー」を用いるケースが多いようである。常識的に考えると、昔からある「聞き書き」でいいではないかということになるが、アカデミズムの人たちは「聞き書き」とはどうしてもしたくないようだ。というのは、「聞き書き」を使った研究は、日本の歴史学や政治学の世界ではこれまでちゃんとした学問研究とは看做されてこなかったからである。 欧米では、「オーラル・ヒストリー」は学問の方法論としても立派に市民権を得ているそうである。そこで、日本で「オーラル・ヒストリー」を積極的に推進しようとする人たちは、欧米並みになるためにも、「オーラル・ヒストリー」をきちんと定義して、これまでの単なる「聞き書き」とは違うのだということを示そうとしている 例えば、政治学の方面では、「オーラル・ヒストリー」を定義して、インタビューの対象は公的な立場にある人(公人)でなければいけない、インタビューを行うのは専門家でなくてはいけない、インタビューされたものが情報として公開されなければいけない、というような非常に狭く厳しく限定した考え方が提起されている(御厨貴『オーラル・ヒストリー』中公新書)。 一方、歴史学の方面では、「オーラル・ヒストリー」とは、インタビューで話された内容が事実に立脚しているかどうか検証を伴うものである、とする人が多い。つまり、話す人の記憶違いや事実誤認があると、それは歴史の資料として使えない。インタビューをただ無批判に受け取っては駄目で、検証が必要だというわけである。(この考え方に対しては、歴史学以外の人から、「オーラル・ヒストリー」とは、話す人の「リアリティ」、話す人の「認識」を記述することなのだから、それが事実に立脚しているかどうかは全く別の問題である、とする異なった考え方が示されている。)
ちょっと見ただけでも、アカデミズムの世界では、「オーラル・ヒストリー」をめぐっていろいろな議論があるようである。それぞれ自分の学問分野にいかに役立つかというところから定義や方法論が作られており、共通のコンセンサスはどうもまだできていないように思われる。
そんな中で、私はこれから始めようとするインタビュー企画を、あえて「オーラル・ヒストリー企画」と名付けた。私がインタビューに想定している人たちの殆どは世間に名の知られている“公人”でもなければ、インタビューする私自身も“専門家”でもない。上に見た政治学者の定義に照らすと、これでは「オーラル・ヒストリー」を称する資格はないのかもしれない。しかし、「オーラル・ヒストリー」の方法や定義をめぐってはまだまだ混沌としている。これをなにもアカデミズムの世界だけに限定することはないのではなかろうか。しかも、歴史の重要な局面に立ち会った人たちのすべてに、“専門家”だけでアプローチしきれるものでもないであろう。記録に残されることなくこの世を去っていく多くの歴史の証言者がいるとすれば、そのほうがむしろ惜しまれる。 始めるにあたって、予め以下のような点をお断りしておきます。
「オーラル・ヒストリー企画」代表 米濱泰英 |
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