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2 八路軍の捕虜となり莱陽へ

山東半島

――山下さんは二度目の航海で青島に向かった際、嵐にあって別のところに上陸し、八路軍に捕まってしまったそうですね。捕虜になったときの状況はどういうふうでしたか。

 「9月に山東半島の青島に武器と弾薬を運ぶことになって、上海を3隻の船で出航しました。ところが、そのときは台風が来ていて海が大荒れになり、僕らの船は前の船を見失ってしまいました。そのうえ航海士が海図を見誤ったものだから、青島を通り越して半島の先寄りの海陽というところの小さな湾に入ってしまいました。
 このあたりは浅瀬が多く、座礁してしまってにっちもさっちも行かないのです。そうこうしているうちに船に段々水が入りはじめました。座礁したところから陸まで1キロぐらいありましたが、僕らは夜が明けるのを待ってから、伝馬船で荷物を運びました。船には船長、機関長以下10人の乗組員がいました。
 上陸した日の夕方でしたが、突然八路軍の武装工作隊に包囲されたのです。20人ぐらいいましたね。無抵抗のまま、全員捕虜になってしまいました。僕たちは、ここが八路軍の支配地域だなどということはなにも知りませんでした。そもそも僕はそれまで八路軍なんて聞いたこともありませんでしたし、ともかく中国は全部日本の領土だぐらいに思っていたのですから。
 僕らは八路軍の膠東(こうとう)支部のある莱陽(らいよう)まで歩いて連れて行かれました。一体何が起こっているのか皆目分かりません。莱陽へ着いてみると、ここには日本兵で八路軍の捕虜になった渡辺三郎、小林清、渡部といった人たちがいました。この人たちは、なんと日本軍に対する反戦活動をやっていたのです。こういった人たちの話を聞いて初めて、ここら一帯は日本軍の管轄ではなく、“匪賊”の管轄地域だということが分かったわけです。」


 莱陽というところは、海陽から50キロばかり内陸に入った山東半島の中心部にある街である。この地域に八路軍の膠東分区があり、日本兵捕虜で作っている日本人民解放連盟の膠東支部もここにあった。
 渡辺三郎氏は、山形県出身の軍曹で、招遠にあった三菱金属の金鉱を守備するために派遣されていた分遣隊(道頭分遣隊)の隊長をしていた。1942年、八路軍との戦闘で負傷して捕虜になり、その後反戦運動に転じた人である。そして、この頃は解放連盟膠東支部の支部長をしていた。
 小林清氏は大阪府出身で、独立混成第5旅団の上等兵であった。1939年山東省文登県で八路軍の捕虜になり、反戦運動に転じた人である。この人はついに日本に帰らないで中国で生涯を終えた。中国語で書いた回想記『在中国的土地上――一個“日本八路”的記述』が中国で出版されている。なお、その遺児陽吉氏は来日して朝日奨学会に勤務されている。

――捕虜になった当座はどういうお気持ちでしたか。

 「いずれは日本軍が助けに来てくれると思っていましたね。そもそも日本が負けるなんてありえない、必ず勝つと信じていましたから。
 莱陽に着いて、すでに反戦活動を始めていた人たちから、日本軍がこちらでは悪いことばかりやっている、ということを懇々と説明されたのですけれども、僕たちにはあまりぴんとこないのです。それよりも何よりも、早く帰してもらいたいとみんな心の中で思っていました。時間が経てば経つほど、僕たちは恐いのです。というのは、軍法会議にかけられる心配が出てくるからです。こんな風に捕虜になってしまうと、兵隊なら自決しなければいけないのですが、僕らは軍属ですから、そこまでしなくてもいいだろうと腹の中では思っていましたけれども。
 しかし一番参ったのは、そこの生活でした。生まれて初めて体験する生活なのです。原始社会と言ったらいいでしょうか、こういう社会もあるのかと思いましたね。電気はなし、トイレはなし、火をつけるマッチもない。勿論、タバコとか紙とか鉛筆とか歯ブラシなんてものは一切ない。風呂なんてありませんし、オンドルの上は南京虫、しらみ、のみで一杯でした。寝る所には高粱ガラを敷いて、その上に寝るのです。食べ物は、トウモロコシの粉とか雑穀を粉にしたものをフライパンで焼いて食べるのが唯一の食事ですが、どうしても喉を通らないのですよ。
 こういう生活は耐えられない、一刻も早く帰してもらいたい、というのが僕らの願いでしたね。」


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