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インタビューリスト

4 日本労農学校

 「大店には八路軍の山東軍区の本部がありましたが、そこには抗日軍政大学の山東分校もありましたし、また日本労農学校の山東分校もあり、朝鮮独立同盟の支部もありました。この三者は一緒に行動していました。どうしてここが山東全体の本部になっているかと言うと、この一帯は攻めるには攻めづらい、守るには守りやすい、そういう点で地形的に非常に安全な自然の要塞になっていたのです。
 この大店のすぐ近くに労牛腰という村があって、僕らはそこにいました。大店に市が立つと――市が立つのを中国語で“趕集”(ガンジー)と言いますが――周辺の村々から農民や商人が物を持って集まります。この市が立つときに行かないと、物が手に入りませんから、僕らは歩いていきました。
 僕は労農学校に来てからも、なかなか食事が合いませんでした。中国の油は駄目、唐辛子、ニンニク、ニラ、豚肉も駄目、従ってギョウザも食べられない。マントウも、トウモロコシや粟の炒めたものも駄目といった調子だから、食べられるものがないわけです。総務主任をしていた浜田一男軍曹が見かねて、「これでは山下はもたない」と言って、僕のために水団(すいとん)を作ってくれました。メリケン粉を練ったものを千切って湯に放り込んで、それに野菜を加えた程度のものですが、ありがたかったですね。
 もう一人忘れられない人に木暮重雄(現筒井重雄)さんがいます。木暮さんは飛行機のエンジン故障で不時着して捕虜になった人ですが、労農学校で一緒になりました。日曜のギョウザ作りなどでは、私のために漬物を刻んで中に入れてくれたりしました。
 この浜田軍曹も木暮さんも終戦のとき、八路軍に投降するよう日本軍に談判に行く、といってそれぞれ別の部隊へ出掛けました。しかし、浜田軍曹は帰ってこなかったです。青州の益都の辺りにいた独立混成旅団第五旅団の駐屯地に行ったようですが、そこで捕まって銃殺されたことは間違いないようです。」

――日本労農学校ではどういうことを学ばれたのですか。

 「労農学校は、校長が本橋朝治という人で、講師には延安から来た上田正雄、市川正一、教務主任に国保康治といった人がいて、この人たちが主に国際情勢とか日本の状況などを講義していました。学生は60人ぐらいいました。
 この学生のなかには日本軍のスパイと思われる者もたくさん混じっていました。なかなか正体は明かしませんが、日本軍から逃亡してきた、と言っていた連中はみんな怪しかったですね。軍隊で殴られてばかりいるので嫌になって逃げてきた、と言う者がいるのですが、これは嘘か本当かわかりません。なかには、八路軍の言うことは尤もだ、正しいことを言っている、などと言う者もいました。しかし、日本軍のなかでは、だれもが八路軍は匪賊だと思っているのですから、そんな八路軍の評価は考えられないわけです。ああ、こいつはスパイかもしれないな、と疑うことになるのです。
 そもそも日本軍から逃げてくるなんてことは不可能です。途中で必ず捕まってしまうのです。
 日本軍は入れ替り立ち替りスパイを派遣していましたから、こういうスパイ問題がしょっちゅう起きていました。八路軍側もわかっていながら、泳がせて様子を見ているようなところがありました。
 しかし、スパイであれ何であれ、ここへいったん来てしまったら、ここから逃げるなんてことは不可能でした。逃げたら必ず捕まるのです。回りの農民はみんな八路軍の協力者ですからね。それが分かってくると、逃げようなんてことは考えなくなります。僕がわりと親しくした男も、最初はどうもスパイのようでしたが、後には積極的に反戦活動をやりだした、というのもいましたね。しかし、彼がスパイだったという確実な証拠を僕も摑んでいたわけではありません。

 僕はここに45年5月までいましたが、この頃になると日本が負けるということが少しずつ分かってきました。労農学校では毎日のように国際情勢とか日本がどうなるか、といったことを講義していましたからね。4月末には、ムッソリーニが処刑され、ヒットラーが自殺して、枢軸国であるイタリア、ドイツが相次いで崩壊したでしょう、ああこれで日本が負けるのも時間の問題だな、ということがはっきり見えてきました。
 そこで、学校側でも、魯中支部、魯南支部、膠東支部へ人を派遣して、反戦活動の強化に乗り出そうとしたのです。僕もこれでなにか踏ん切りがついた感じがしましたね。」

――“日本が負けるはずがない”と信じ込まされていたのが、「憑き物」が落ちたという感じでしょうか。

 「そうですね。それまでは、日本軍はひどいことをやっているといった講義を聞いても、まあそんなもんかと思う程度で、やはり心の中では日本側に帰らなければいけないと思っているのです。しかし、日本軍に帰るといっても、こんなに時間が経ってしまったら、せいぜい銃殺か軍法会議にかけられるか、まあ碌なことにはならないだろうな、だけどこんな原始的生活がいつまでも続くというのもたまったものではないし、といった心中もやもやしたものが正直のところありました。
 ところが、日本が負けるという確信ができたことで、こうしたもやもやしたものがふっ切れましたね。」


日本労農学校(中国名は日本工農学校)
 1940年10月、中国共産党の本部がある延安に始めて設立された。当時延安にいた日本共産党の幹部野坂参三(この当時は「岡野進」と名乗っていた)が校長として指導にあたった。中国共産党は日中戦争が始まったときから、「日本兵捕虜は殺してはいけない、むしろ優遇せよ」という命令をたびたび出して、これを八路軍兵士にも農民にも徹底させた。こうした優遇政策を享受した日本兵捕虜のなかで反戦活動が起こり、「日本人反戦同盟」という組織ができていった。やがて日本兵の捕虜の数が増えてゆくに従って、彼らを組織的に教育する機関が必要だということで、労農学校が設けられることになったのである。(なお、「日本人反戦同盟」は改組されて、44年2月から「日本人民解放連盟」となった。)
 日本労農学校の分校はその後山西省にでき、44年10月には山東省にもできた。山下さんたちは44年の暮れに到着しているので、山東分校ができてまだ2ヶ月ぐらいしか経っていないところへ入学したのであろう。




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