「僕は45年5月にまた莱陽に帰ることになりました。日本が負けるのも近いから、できるだけ多く前線に出て行って日本軍への宣伝活動をしよう、ということになったのです。それで、莱陽の膠東支部の武装工作隊に入りました。一つの工作隊は、だいたい30人から50人いますが、この中がまた各組に分かれていました。こちらの組は鉄道を爆破する、あちらの組は橋を爆破する、そちらの組は宣伝ビラを書く、といったふうに分かれるのです。 莱陽の近くには牙山(ヤーサン)という一際高い山があります。見る角度によっていろいろ形が違って見えるため、山の姿によって現在位置を確認することができるのです。この辺一帯で活動する僕らにとっては何かと便利な目印になる山でした。 僕らは膠済鉄道の青島から済南に向かって右側、つまり北側の沿線一帯で日本軍への反戦の呼びかけを始めました。さっきも言ったように、線路を渡って左側に行くのは容易なことでは行けませんからね。 どういうことをやるかというと、夜日本軍のトーチカ(望楼)に近づきまして、メガフォンを持って「諸君は村を襲って略奪してはいけません。罪もない農民を殺してはいけません」とか、あるいは「日本はもうすぐ負けます。日本が負けたら八路軍に投降してください。八路軍は絶対諸君を殺しません」などと言うのです。じっと聞いているトーチカもあるし、我々を罵倒して撃ってくるトーチカもありました。 トーチカは小さなものと大きなものとありましたが、大きなものがぽつんぽつんとある間に、小さなものがちょこちょことあるのです。小さいところには保安隊がいて、大きなところには日本軍の兵士がいるのです。保安隊というのは汪精衛(汪兆銘)の軍隊、つまり日本の傀儡軍です。数でいえば、大体日本軍の倍ぐらい保安隊がいました。 僕らが反戦活動をするのも中国人と一緒に活動するのです。中国人は保安隊に対して中国語でしゃべる。僕らは日本人に対して日本語でやる。そして宣伝ビラを撒いたり、慰問袋を木に縛り付けてくる。慰問袋は彼らへのプレゼントなのですが、その中には石鹸とかタバコ、タオルを入れたりしました。 青島の近くの即墨(そくぼく)というところで、後に我々の仲間になった江連一夫さんたちを捕まえたことがありました。トーチカには10人ぐらいいました。呼びかけたとき、彼らは散々僕らを罵倒した揚句、撃ってきました。これは危ないと思いましたが、ひょっとすると明日か明後日ぐらい外に出てくる可能性があると踏んだのです。それで翌日待ち構えていたら、案の定彼らは出てきました。それを捕まえたのです。兵長と江連氏ともう一人、3人捕まえました。このときの兵長は木内という人でした。そして彼らを莱陽まで連れて行きました。江連氏の話では、この頃はもうどうせ負けるであろうと自棄的になっており、保安隊にやらせようというような極めて戦意の低い状態だったということでした。この辺りにいたのは大体茨城出身の兵隊でした。」 |
お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved. |