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インタビューリスト


 僕らも司令部のほうから、そういう右翼の連中を探して来いと言われましたけれども、街を歩いたからって、そういうものが見つかるわけはないです。それよりもむしろ、多くの居留民が失業し街に溢れていましたから、民主連軍の荷物の積み下ろしといった雑役の募集や、女性の場合には負傷者の看護要員の募集を呼びかけたりして、多少なりとも失業者を救済することが先決でしたね。
 そうこうしているところへ46年2月3日の「通化の暴動」が起きたのです。安東周辺にも国民党の部隊が入ってき始め、民主連軍にはだんだん不利な情勢になってきました。」


 山下さんへのインタビューの後、終戦当時安東にいた新聞記者長島一の書いた「安東五番通事件」(『秘録大東亜戦史 満洲篇』所収)を目にすることが出来た。それによると、45年9月2日ソ連軍は安東に進駐したが、それと同時に朝鮮へ通じる鴨緑江の橋を閉鎖した。そのために、朝鮮の新義州を経て日本に向かおうとした多くの日本人が足止めを食ってしまう。それまで5万人だった安東の日本人はたちまち倍以上に膨れ上がった。学校や公会堂を開放しても全部収容しきれず、街は失業者で溢れていたという。山下さんたちはそういう状況下の安東に入っていったのである。

満洲

8 通化から牡丹江・佳木斯へ撤退

 「僕らのいる安東は安全ではありませんでした。いわゆる「通化暴動」で通化が大変だというので、僕らの部隊はトラック3台に武器、弾薬を積んで通化に向かったのです。僕は最後尾の車で、荷物の上に後ろを向いて坐っていました。通化に入るところに、アーチのようになった城門をトラックがくぐったのですが、アーチが低いものだから頭がアーチにぶち当たって車から放り出され、右腕を折ってしまいました。それで入院しなければならないことになり、通化の市立病院に運ばれたのです。
 ところが、その病院は日本人が経営していて職員もみな日本人でした。僕は身分がばれるとまずいので、「民主連軍の雑役で、荷物の積み下ろしを手伝っていて、たまたま安東からここへ来て負傷してしまった」と言いました。
 ところで、入院した病院で、末松氏が箒を持って便所掃除をしているのを見て、僕はびっくりしました。労農学校で一緒だった末松氏とは、その後別々の部隊に分かれて活動しましたから、彼がどういう経路でこの通化までやってきたのか知らなかったのです。通化はまだ日本軍の暴動に加わった残党がいて物騒な状況でした。彼は身分を隠して地下に潜っていたのですね。だから、ばれたらお互いに困るわけだから、目で合図をするだけでした。僕の入院は2,3ヶ月かかりました。
 そうこうしているうちに国民党の軍隊が入ってきて、通化も危なくなってきました。それで民主連軍は撤退するということになって、どんどん北の牡丹江のほうへ移って行ったのです。」


八路軍の戦法
 「敵が進んでくれば我々は退き、敵が止まれば我々は悩ませ、敵が疲れれば我々は襲い、敵が退けば我々は追いかける。」これは毛沢東がゲリラ戦について言った基本原則である。日中戦争も国民党との内戦も、中国共産党は基本的にはこの戦法で戦った。

通化事件
 通化は吉林省の南方にあって交通の要衝に当たる都市である。ソ連軍はこの街にも進駐してきたが、45年11月にはすべて撤退した。ソ連軍の出て行った後、通化の政治主導権を握ったのは共産党・八路軍であった。
 この街には、北のほうにいた日本人がたくさん流れ込んでいた。その中に関東軍の残留将校・兵士や旧満州国の元官吏も多数混じっていた。この残留将校や元官吏が中国国民党の一部と組み、共産党・八路軍を転覆させようとして、秘かに武装蜂起を計画したのが、46年2月3日の通化暴動であった。日本人の一般居留民の中にも暴動に参加しようとしたものがいた。
 しかし、計画は事前に発覚して徹底的に弾圧された。戦後の中国で、日本人が関わった事件としては最大の事件である。このとき、日本人は民間人も含めて千数百名が命を落としたと言われている。


 「民主連軍の中では、僕ら日本人の多くは後方にいて、負傷者の看護をするのが主な仕事でした。民主連軍は、戦闘が始まると、行く先々で病院を開設していきます。新しい街に入って行くと、今まで日本軍が管理していた病院を今度は八路軍が管理するというふうに切り替えていきます。職員はそのまま置いて、民主連軍の言うとおりにしなさいという風に接収していくのです。北上しながらも戦闘は激しくなっていくので、負傷者がどんどん増えていきます。そこで、さらに安全な北の方へ撤退して行きました。
 僕らの部隊は佳木斯(チャムス)に撤退して行きました。民主連軍のなかには、ハルピンの方へ撤退した部隊もありました。ハルピンには民主連軍の本部がありましたし、ソ連は46年5月にはもう撤退していましたから、ここはいちばん安全なところでした。また、朝鮮の方へ撤退して行った部隊もありました。鴨緑江には朝鮮義勇軍の鴨緑江支隊という強力な部隊がいました。」


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