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山下好之氏 第6回:11.黄河を渡ってさらに南下〜12.日本人留用者に対する中国側の総括

11 黄河を渡ってさらに南下

 「僕らは、さらに黄河を渡って河南省の鄭州へ南下して行きました。このあたりは水がよくないところでした。それに阿片を吸っている人間が多いところでしたね。この地方の人はどういうわけか顎のあたりに大きな瘤(こぶ)がある人が多いのです。水がよくないせいか、何かが不足しているのでしょうね。風土病のようなものかもしれません。不思議なところだな、と僕らは言っていました。
 僕の属していた「第10後方病院」は湖南省の長沙の方へ向かいまいたが、僕はここで「第5兵站病院」に移ることになりました。兵站病院は部隊とともにどんどん移動して行きますので、病院といっても、何か大きな建物があるわけではありません。何軒かの農家の部屋を借りてやっていましたから、病室があちこちに分散しているのです。そうすると看護婦は夜も薬を配ったりしなければならないのですが、野良犬がつけ狙って出てくるので、僕らはそのボディーガードに棒を持って付いていったりしていました。
 激戦続きで、顎がないとか脚がないとかの重傷者が運ばれてきますから、応急処置をやらなければいけません。傷病兵の腐った脚は切り落として捨てるのですが、夜になると野良犬がそれを狙って食いに来ていましたね。
 また、重傷を負って、自分で寝起きもできない、便所へも行けないという病人がいますが、そうした場合には担架に穴を開けて、そこに陶器で作った“盆”(オマル)をつけて、大小便が自然に落ちてゆくようにしていました。要するに、垂れ流してもいいようにしているのです。こういう患者は応急処置だけして、後方の病院に送っていました。そしてその担架を担いで運ぶのは農民がやるのです。共産党軍は行く先々で土地を農民に解放してゆきましたから、彼らは喜んで手伝っていました。」

1949年10月江西省宜春にて 第5兵站病院の院部のメンバー
 「この後、江西省へ入って行ったのですが、南昌から少し南西に下ったところに宜春という街があります。僕らが宜春に入る前に、第四野戦軍の第四三軍がここにいましたが、この部隊が宜春を出て行ったあと、僕らの部隊が入っていきました。この第四三軍という部隊が海南島で戦った主力部隊です。
 宜春に到着した頃、中華人民共和国が成立しました。ここにある写真は49年10月6日、人民共和国が成立してから5日後に宜春で撮った記念写真です。
 病院の中に「院部」というセクションがありまして、いわば病院の本部のような役割をしていました。この写真は院部の人間が集まって写したものです。ほとんど皆日本人で、中国人は4人だけです。
 院部と別に「一所」「二所」というところがありましたが、この一所というのが一つの単位になっていました。その単位ごとに、医師、薬剤師等みな必要な人がいました。」

――人民共和国が成立してからも、まだ戦闘が続いていたわけですね。

 「南のほうでは戦闘が行われていましたから、共和国が成立してからもまだまだ南下して行きます。国民党は武漢から南を白崇禧(はくすうき)の軍団が守っていましたので、それをどんどん南に追い詰めて行きました。
 宜春から今度は贛州(かんしゅう)へ行きました。ここへ行くのには船を使って下っていきましたが、船といってもジャンクのようなものに荷物を一杯積んで、縄紐をつけて陸から引いてゆくのです。
 南昌からこの辺り一帯にかけては、水が非常に悪いところで、マラリアとか腸チフスがとても多いところでした。我々のスタッフもみんな片っ端からマラリアにやられてしまいました。マラリアに罹ると、40度ぐらいの熱が出て、うわ言を言うのです。キニーネという薬をもらうのですが、これを使うとシャツも何もかも黄色くなってしまうのです。
 僕も赤痢にやられてしまいましたが、便所に入って出てくると、またすぐ入りたくなるので参りました。まあ、江西省のこの辺りはひどいところでしたね。」

――行軍の際に個人の持ち物というのは、どんな物を持って行くのですか。

 「コップ、これは食器の役もするのですが、それと着替えの衣類、敷布、薄っぺらの布団、蚊帳、それに靴一足、それが全財産です。それを一つにくるんで背嚢に入れて歩くのです。
 タバコはなかったですが、タバコの葉っぱを農民から買いましたね。それにアカシアの葉などを一緒に混ぜるのです。木の葉でも柔らかい粉になるような葉を捜してきて、それを紙にくるくるっと巻いて吸っていました。」

 「それから広東省に入っていきました。広州に入ったときは、まだドンパチと市街戦をやっていました。広州で初めて榴弾砲とそれを牽引している車を見ました。ものすごい大きなものでしたね。これを牽引するトラックもまたすごいです。そして、それを運転しているのは日本人でした。榴弾砲もトラックもみなアメリカからかっぱらったものです。
 広州のど真ん中を流れている珠江に架かる橋は爆破されていました。半分ぐらいは残っているのですけれども、渡ることはできません。国民党が逃げるときにやった仕業です。広州は激戦になりましたから、彼らの犠牲も大きかったのですが、解放軍の犠牲も大きかったです。
 最終的には、彼ら国民党はこの広州から台湾と海南島に逃げていきました。しかし、海南島は3ヶ月しかもちませんでした。」


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