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12 日本人留用者に対する中国側の総括

 ここに中国で出版された『人民解放軍第四野戦軍衛生工作史(1945年8月〜1950年5月)』(人民軍医出版社)という本があります。この中に私たち衛生関係に携わった日本人について「日本人衛生技術者に対する政策」という1節があり、その経緯や総括がきちんと述べられています。特に、どれぐらいの日本人が参加したか、どんな仕事をしたか、そして中国側はどう評価していたか、といったことを知るにはとても貴重な資料です。私が訳してみましたが、全文は紹介できませんので、要約してご覧に入れましょう。

 「1945年の日本降伏以後、八路軍、新四軍は各地から東北へ進出を開始した。このとき軍とともに東北へ行った衛生関係者はわずか1600名程度であった。部隊の発展成長とともに、多くの病院や医療機関を設置していったが、それらに従事する技術者は極めて不足していた。
 一方、かなり多くの日本人の技術者は東北になお留まっていた。そこで東北民主連軍の衛生部門は、日本人の衛生技術者を留用することにした。留用された人々は、満州国時代の鉄道病院、鉱山病院、県立・市立病院、日赤病院、開拓団の病院、医科大学、製薬会社、衛生技術廠などで働いていた人々である。中には関東軍の医療部門で働いていた人たちもいた。この時期留用された衛生関係の日本人は3000名あまりにのぼった。
 留用の形式はまちまちであったけれども、施設を丸ごと接収され、あるいは病院を丸ごと接収されて、留用されることになったケースが一番多かった。それ以外には、引揚げを待っていた人々の中から選抜したり、民主連軍に一時的に徴用されていたのが引き続き留用されることになった、という人たちもいた。
 東北野戦軍衛生部が設立されてから、民族科を設置し、日本人の小島氏が科長の任に当たり、多くの部署に民族幹事を置いた。それと同時に日本人民解放連盟の人たちとも積極的に連携して、日本人技術者への政治思想教育を行った。
 1948年1月、東北野戦軍衛生部で衛生大会が開催され、賀誠部長は講演のなかで日本人医務技術者に対する対応政策を述べた。講演では、日本人との団結を強め、国際主義の精神のもとで真面目に人民に奉仕している彼ら日本人に対し、狭い民族観で対応してはいけないし、いわんや“俘虜”などという考え方で接してはいけない、という点が強調された。
 また、このときの会議で日本人の結婚問題についても論議され、相応の規定を設けることになった。日本人医師、薬剤師、技師以上の職務についている人に対して、男女双方の同意の下に、結婚後も仕事に支障がないかぎり、結婚を認めることにした。
 後方の各病院で働く日本人の衛生技術者も、成績の極めて優秀な人が多く、約5分の1以上の人々が功労賞を受賞した。功労の評定に当たっては中国の従業員と平等な取り扱いがなされ、1947年5月、東北民主連軍総衛生部で開催された表彰大会で受賞することになった後方衛生技術者36名のうち、日本人が16名いて、全体の44パーセントを占めていた。

 1948年、全東北が解放され、東北野戦軍は、関内に進駐して北京天津戦役に参加したが、さらに引き続き南下し、海南島を解放する作戦命令を受けた。1400余名にのぼる日本人衛生技術者もずっと従軍し行動を共にした。そして、医治、救護、防疫などの仕事に当たり、筆舌に尽くしがたい緊張した任務を成し遂げた。
 野戦軍の南下にともない、武漢、湖南、江西へと前進したが、季節はちょうど夏で、灼熱の炎天の下、虫や蚊が多く、東北出身の兵士たちは適応できなくて、大量の病人が出た。ひどい下痢症状を起こし、伝染病や熱中症に罹る患者が多発し、各病院ではこれらの病人の収容であふれてしまった。
 このような状況下で、伝染病の専門家である西垣明治内科博士は多くの論文を執筆して、熱帯地方で多発する疾病とその治療経験を紹介し、病人の救護と病気流行の防止に多大の貢献をした。
 解放戦争全体で、多くの日本人医務人員とその他の衛生部門で働いた人々は、仕事に積極的に励み、見事に任務を完遂して、多くの模範工作者や功労者を生み出した。
 1950年第13兵団衛生部の統計によると、衛生部門だけで功労を立てた人数は1887名で、そのうち日本人功労者は40パーセントを占めていた。そのなかで、看護婦の桓木さんのように、1949年12月に開かれたアジア女性大会の代表に選ばれた人もいた。

 日本の衛生技術人員及びその他の従軍者は、北は東北(満洲)から南は海南島まで、中国の戦友とともに、解放戦争中苦難の歳月をなめ尽くした。そして、中国人民解放の勝利を直接目にし、中華人民共和国の誕生を見て、中国戦友とともに心から喜び、勝利に対する幸福感を享受した。
 1953年2月15日から3月5日まで、日本政府は代表団を中国に派遣して、日本人居留民の帰国について中国側の関係部門と接触し、帰国させることを確定した。この消息が日本人に伝えられると大きな波紋が広がった。
 東北野戦軍が関内に入ったとき、日本人の医務関係者は1401名いた。1950年11月、東北軍区から中南軍区に勤務した日本人の従軍者は417名であった。その後1952年、地方に配属された人もいた。1953年まで中南軍区衛生部に所属していた日本人は1680名であった。

 1956年6月27日、周恩来首相は日本赤十字協会、日中友好協会、日本平和連合会3団体の代表と会い、次のように述べた。「我々は一部の日本人に大変感謝している。それは彼らが解放戦争時期に、ある人は医師として、看護婦として、技術者として、それぞれ解放戦争に参加してくれた。こうして我々は日本人民と友好関係を結ぶことに深い自信をもつことができた。日本軍国主義はたしかに残酷であったが、それとは別に多くの日本人民は我々に協力してくれた。」
 帰国してから多くの人は日中友好を促進するための活動家となった。彼らは在留中の体験を忘れないために、過ごした地域や団体をもとに親睦団体を作って、毎年のように集まりをもっている。
 その親睦団体には次のようなものがある。長白会、梨樹会、チチハル会、訥河会、長城会、鉄流会、来陽会、桂林会、咸寧会、鶏公山会、医大の友会、大陸の友会、回想四野会、洛陽戦友会など。
 日中国交が回復し友好条約が結ばれてから、お互いの訪問も増えてきた。両国のかつての戦友は会うたびに、お互いに当時の青春時代に立ち返り、戦火のなかで芽生えた友情を喜び合っている。このような再会の場面は筆舌に尽くしがたい光景である。」


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