――山下さんは、広州まで行って、それから北上したわけですか。
「僕らの部隊は海南島までは行きませんでした。広州が解放され、海南島が解放されてまもなくでしたが、50年の6月に今度は朝鮮戦争が始まりました。それまで南方にいた軍隊は北に向かえ、ということになりました。東北を出るときは10万だった第四野戦軍の軍隊が,帰る時には100万の軍隊になっていました。この大部隊が、朝鮮の新義州まで北上して行ったのです。我々日本人も全部新義州まで帰ってきました。
ところが、新義州まで行ったら、日本人は朝鮮戦争には参加させない、ということになったのです。中には紛れ込んで参加していった者もいましたが、しかし日本人のほとんどはここで差し止められたのです。
中国が朝鮮戦争に参戦するに当たっては、「抗米援朝」の人民志願軍を募りましたが、その司令官には彭徳懐がなりました。本来なら第四野戦軍を率いてきた林彪が指揮を執るものと思われていたのですが、林彪は病気を理由に断わりました。長春を包囲したとき、彼の意見が入れられなかった、あの前からの因縁が尾を引いていたと言われています。
「抗米援朝」に参加した志願軍の犠牲者は40万人と言われています。連合軍も同じぐらいの犠牲者が出たはずです。志願兵たちから聞いたのですが、志願軍が入ったときに、表を歩いているものがいないと言うのです。道を歩けない、歩けば全部やられるわけです。激しい戦争だったようです。そこで、中国軍のほうは地下道を掘って、そのなかを移動していたと言っていました。
共産側はソ連が飛行機を提供していましたが、マークはみんな北朝鮮のマークで、飛行士はソ連と北朝鮮と中国の3カ国の人間が乗り込んでいたということでした。」
――この朝鮮戦争の時期は、山下さんはどこにいらっしゃったのですか。
「僕は河南省の鶏公山というところの病院にいました。ここには日本人が250人ぐらいいました。朝鮮戦争の負傷兵もここへ送られてきていましたから、そういった人たちの治療をしていました。
ここにいた日本人はみな、1953年(昭和28)に日本に帰ってきました。政府間の連絡はまだ取れる状態でなかったものですから、島津忠承氏らが中国紅十字会と話し合って、ようやく帰国船を出すことになったのです。この夏、ここにいた人たちの集まりが広島でありますが、今年が最後になるかもしれません。」