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14 大学で中国語を学ぶ

――山下さんは、その帰国組に加わられないで、さらに残られたわけですね。

復旦大学中文系のスタッフ(2列左から3人目が山下さん。2列右から3人目が朱東潤主任)
 「僕は、その少し前に北京に行きました。戦争も終わったし、先方も僕に勉強させてやろうというので、北京の人民大学というところに入ったのです。そこで中国語の基礎から全部やりました。3年足らずいまして、中国語と、政治、経済、哲学を勉強しましたが、主体は中国語でした。
 それが終わって、今度は上海の復旦大学へ行かないかと言われました。復旦大学の「中文系修士課程」へ行ってからは、徹底して中国語学の勉強でした。ただ話す,書く、読む、といった中国語ではなく、学問としてやることを要求されました。朝から晩まで、日曜もなしでしたね。
 この復旦大学にいたときに、日本から倉石武四郎博士一行が大学に視察にみえたことがありました。帰国されてから、視察団のどなたかが僕のことを紹介されたようです。それで、香坂順一氏が手紙を寄越されて、自分が作っている中国語辞書の原稿を見てほしいということで、日本から原稿が送られてくるようになりました。僕はそれを校閲しては日本に送り返していました。
 この写真は、当時の中文系の教授たちですが、みんな有名な人ばかりです。」


復旦大学「中文系」
 山下さんが行った当時の復旦大学「中文系」のスタッフには次のような人たちがいた。主任に朱東潤(中国古典学、書道家)、教授には郭紹虞(古文解釈学)、劉大杰(中国文学発展史)、張世禄(古文解釈学)、胡裕樹(現代漢語学)、蒋孔陽(文学理論)、濮之珍(音韻学)といった人たちである。

この一連の話を伺っているあいだ、山下さんはご自身の結婚のことについて触れられることはなかった。最後にそれについて伺うと、夫人とは1952年に武漢で結婚されたそうである。夫人の名は春江さん(旧姓伊達)。山下さんから簡単に夫人の経歴を紹介していただいた。

安東朝日国民学校教職員一同(2列右から2人目が伊達春江さん)
 「家内はもともと安東にいまして、昭和17年安東高等女学校を卒業後、教員養成所に行きました。そこで、日本の教員免許をもらい、安東朝日国民学校というところで教員をやっていました。そのうち敗戦になり、民主連軍の看護婦になりました。その後彼女は第四野戦軍の第四二軍について南下していきました。そして50年に朝鮮戦争が始まると部隊は新義州まで引き返したのですが、日本人は従軍させないということで外されました。それで河南省の鶏公山の病院に来たのですが、そこで僕と一緒の職場になったというわけです。
 僕が復旦大学に通っているときは、家内は上海の市立図書館に勤務していました。」


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