1920年生まれの筒井さんは今年86歳だが、なお現役のお百姓さんである。毎日自ら車を運転され、10キロ先の果樹園まで出かけて農作業にいそしまれている。
陸軍の空軍パイロットであった筒井さんは、大戦末期、中国山東省で飛行機のエンジン故障により不時着し、八路軍の捕虜になった。その後日本軍に向けて反戦活動をしたが、戦後は中国に残留して中国空軍の建設に協力し、中華人民共和国初の空軍パイロットを多数養成した。筒井さんは1958年に帰国したが、教え子たちはその後中国空軍の要職に就く。そして86年には中国に招待されて彼らと再会を果たした。
筒井さんは旧姓を木暮という。帰国後長野県飯田の美治夫人の実家を継いだため筒井姓を名乗ることになった。この話の当時は木暮姓だが、このなかでは両方が混じって出るので、予めご承知おき頂きたい。
美治夫人は、小学生のとき、一家が満蒙開拓団に加わり満洲に移住した。終戦当時看護婦をしていた美治さんは各地を転々とし、牡丹江の東北民主連軍航空学校(東北航校)の衛生関係の仕事に就く。そこで木暮さんと知り合い、結婚した。本編の最後に美治夫人から伺った話を収録する。
筒井さんは、中国での体験の一部を『新しい道と再会』(1991年)という一書にまとめて自費出版されている。今回伺った話をテープから起こすに当たっては、同書を参照させていただいた。
――軍隊に入られるまでのことを簡単にお話しいただけますでしょうか。
私は1920年(大正9)10月11日、群馬県吾妻郡大田村(現吾妻町)の農家に生まれました。当時の多くの農家がそうでしたが、生活は決して楽なものではありませんでした。我が家の現金収入は主に養蚕に頼っていましたが、それは家計と交際費に使われるだけで、子供たちのところには何も回ってきませんでした。ですから、私たちは外に出て働いて自分のことは自分で面倒をみなくてはいけなかったわけです。しかし、当時の状況は非常に悪く、土方仕事をしても一日たった80銭にしかならないような時代でした。
私は兄弟の3番目でしたが、長兄は航空隊に入ってパイロットになっていましたし、次兄は学校の教師をやっていて、2人とも家を離れていました。私が家に残って手伝いをしていましたが、このままここに居ても仕方がないと思いました。そこで、軍隊に行って官費の学校に入り、職業軍人になろうと考えました。いずれは兵隊にとられるのだし、それなら自分から好きなところを選ぼう。私は兄の影響もあって、航空隊に志願することにしました。
その当時は志願するには、歩兵、工兵、騎兵、輜重兵、飛行兵とあって、私は飛行兵に志願して入りました。これが昭和15年のことです。私は飛行兵2等兵として入りましたが、その後制度が変わって、陸軍2等兵となりました。
私が最初に入ったところは、岐阜県各務原(かがみはら)にあった第一航空教育隊というところです。
飛行部隊の中にも、いろいろな仕事がありますから、全ての人が飛行機に乗るわけではないのです。私たちのような百姓出の人間は、大体飛行場の警備とかに割り当てられることが多く、旋盤や溶接の経験がある人は整備とかに割り当てられることが多かったですね。
最初の期間はみな同じことをやるのですが、その後それぞれ違った部門に分かれていきます。私は電報班に入りました。電報班は暗号電報を扱う部署です。暗号は、4数字が1つの暗語となっていまして、その組み合わせで電文が作られます。それぞれの4数字がどういう暗語であるかというマニュアルを示したものが『暗号書』です。電報班で電文を受けますと、私たちは電文に乱数を入れて、それをプラスマイナスして、出た数字を『暗号書』で記入し、電文を作成します。