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筒井重雄氏 第2回:2.太平洋戦争開戦〜3.不時着(前半)

2 太平洋戦争開戦

  私たちは、マレー半島の中部にあるスンゲイバタニというところで仕事をしましたが、当時の電報班の班長は田中少佐という方でした。普通の班長ですと軍曹あたりがなるのですが、電報は機密に属する重要なものでしたから、佐官級の人が電報班の班長をやっていたのです。
  ところで、電報班が電報を流すためには、『暗号書』、『乱数表』などを他の部隊に配っておかなくてはいけません。そうしないとお互いに交信ができないわけです。ところが、飛行機でそれぞれの部隊へ配布する途中に、その飛行機が行方不明になってしまうということがあったのです。敵にやられてしまったのか、事故をおこしたのか分かりませんでした。最悪の想定をすると、そのときすでに『暗号書』から『乱数表』まですべて敵に渡っていて、敵は日本の暗号をキャッチしてしまっていたということも考えられるのです。しかし、真相はわかりません。田中少佐はその責任をとってメコン河に投身自殺しました。このことは、当地だけで伏せられましたから、電報班では参謀本部へ「田中少佐はスンゲイバタニ飛行場において敵機の襲撃を受け壮烈な戦死を遂げた」と打電しました。

  戦争がはじまってしばらくの間は勝ち戦でしたから、まだよかったのです。シンガポール――当時は昭南島と言っていました――は、1942年(昭和17)2月15日に陥落しましたが、私たちは1ヶ月後の3月15日に入城しました。すぐ近くのジョホール・バールというところは激戦でひどかったところですが、そこで負傷した人たちが、陸軍病院の2階、3階からびっこを引いたり、頭に包帯を巻いた痛々しい姿で、私たちのシンガポール入城を手を振って歓迎してくれていたのが印象に残っています。

電報班の先遣隊(シンガポールにて。後列左端が筒井さん)
 私たちは7月までシンガポールにいて、8月にまた南京に帰ってきました。この頃第3飛行集団は格上げとなって第5航空軍となります。戦争がどんどん拡大していくにつれて、飛行部隊をさらに拡大していったわけです。
 私はその後昭和18年4月、福岡県甘木市にある太刀洗陸軍飛行学校に入校しました。久しぶりの帰国でしたから、このとき家へ帰れるかと思っていたのですが、船の入港が5日ばかり遅れたために、それもかないませんでした。兵庫県の白畠というところへ上陸しましたが、そこから家に荷物だけ送りました。結局それだけが私のもので今日まで残ったのですが、このアルバムの写真もそのとき送ったものです。
 この太刀洗飛行学校で飛行機の操縦を教わりました。そして、教育期間が終わると、それぞれ戦闘機、爆撃機、偵察機と分かれて飛行学校から出て行ったわけですが、わたしは戦闘機の方に配属されました。
 卒業して大陸に行く前に、今度こそ家に帰れるかと思ったけれども、また時間が作れなくて、そのまま南京に出発しました。」


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