logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


4 捕えられる

 「翌朝、空が白みはじめたころ、ずっと向こうから2人の男がやってくるのが見えました。だんだん近づいてくると、百姓の恰好をしていることがわかりました。しかし、向こうはまだこちらには気がついてないのです。近くまで来たとき、私たちは立ち上がって拳銃を突きつけました。2人は驚いて両手を挙げましたが、言葉が通じないから無言のままです。
 しばらくすると、一人が自分の履いていた靴を脱いで、わたしに呉れようと前に投げ出したのです。そして、ご飯を食べる手真似をしてみたり、火にあたるしぐさをしてみせるのです。私たちも相手が百姓だから、少し安心感も手伝って、彼らを先に歩かせ拳銃は構えたままで付いていきました。
 百姓の家は土塀に囲まれた小さな家でした。さっそく枯れ草を焚いてくれたり、お茶を出してくれましたが、私たちは一晩の寒さと空腹に耐えてきていましたから、本当にうれしかったです。
 しばらくして、体も温まってきて私は小便がしたくなって外へ出ました。驚きました。なんと、土塀の上に30センチおきぐらいに銃口がこちらを向いているのです。私は家の中に引き返し、谷口曹長に、「いよいよ最後のときが来た。帝国軍人として最後の花を咲かせるときが来た。こんなところで犬死するのは残念だが、やれるところまで戦って最後は自決しよう」と言いました。
 腹が決まるともう恐くはないですね。私はもう一度外に出て行って小便をしました。そして家に戻ろうとしたら、一人の兵隊が銃を持たず、紙切れをもって近づいてきました。それから筆談が始まりました。連中は「武器を捨てなさい。生命は保障する」と言ってるようなんです。中国語がわからなくても、なんとなくわかるものですね。こちらも字を書いたりして筆談を始めたわけですが、二人ともそれに気をとられていたら、彼らは突如飛びかかってきて、あっという間に縛り上げられてしまいました。
 そして八路軍の根拠地に連行されることになりました。私の頭の中には、「自決するか、脱走して日本軍に戻るかだ。このまま連行されたら絶対殺される」といった思いが行ったり来たりしていました。それで、脚が痛くて歩けない、と言って歩くのを拒否しました。敵は手を焼いてる風でしたが、衛生兵がやってきて、額の手当てをしてくれました。脚の腫れ上がっているのを見せると、驚いた様子でしたが、しばらくしたら、百姓が椅子を持ってやってきました。何をするのかと思って見ていますと、その椅子に私を坐らせるのです。そして、椅子の脚に2間ぐらいの竹の棒を縛りつけまして、前を4人で担ぎ、後ろをまた4人で担いで,計8人で私を担いで運び始めたのです。なんと、昔の殿様の大名行列のようなことが始まったわけです。見ると、谷口曹長も同じように椅子に乗せられて運ばれて行ってるのです。行くにしたがって黒山のように見物人が集まってきました。
 私たちは担がれているので、一段高いところから群集を見ているような恰好になるわけです。そうしたら、一人の百姓がなにか棒を持って私たちに襲いかかろうとしている様子に見えました。すると兵隊が出て行ってこの百姓を制止したので、しばらく揉み合いが続いていました。あとで日本語の少し分かる兵隊が到着して通訳をしてくれるようになったのですが、さっきの百姓は、自分の子供が日本軍に殺されたので、その怨みをあの棒で晴らそうと襲いかかってきたのだ、と言っていました。
 翌日一つの部落に到着して休んでいたときに、ブーンと爆音が聞こえてきたのです。空を見上げると隼戦闘機が2機飛んできて、私たちが不時着した付近を旋回し始めました。嬉しかったですね。思わず帽子をとってよくわかるように振りました。飛行機は気づいてくれたのか、今度は私たちの休んでいる部落の上空に来ました。私は嬉しさのあまり、大きな声で「ここだ、わかるか」と叫びました。中国の兵隊は我々が何か交信をしたのではないかと極度に警戒して、我々を家の中に押し込めて銃を突きつけてきました。しかし、私は、部隊が我々を確認してくれたことで安心感がでてきました。」

――日本の部隊はちゃんと不時着を確認して、なにか救出に動いてくれたのですか。

 「これは八路軍に入ってからわかったことですが、不時着は確認したが、その後の戦況で日本軍には救出する軍事力がなかったのです。そればかりか、近くにいた日本軍の部隊から八路軍に捕虜になってきた人がいました。」


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.