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筒井重雄氏 第7回:11.牡丹江〜12.東北航校への参加

11 牡丹江

――活動していた人たちはまたいろいろなところへ散っていったのですか。

 「大塚さんは鶴崗炭鉱へ行かれたようですし、私たちは牡丹江へ行きました。このとき山東から一緒だった仲間が4人いたと思いますが、名前は忘れてしまいました。
 牡丹江では近郊の村で液河というところに行きました。ここに元は病院だったようですが、日本兵の捕虜が収容されている収容所がありました。そこを尋ねて私の体験を話しました。「私は山東省で八路軍の捕虜になったけれども、その中でいろいろ見聞するうちに私自身の考え方が変わってきた。八路軍というのは、決して私たちの敵ではない」というような話をして、この戦争が侵略戦争であったこと、戦争も終わって皆さんはこれから日本に帰るのだけれども、帰ったら平和のために力を出してほしいということを訴えました。
 もうひとつは、寧安というところに行きました。そこには日本軍の将校ばかりが収容されている捕虜収容所がありました。私は八路軍の代表としてここに来たが、終戦後あなたたちは武器・弾薬をどのように処理したか聞きたい、と言ったのです。彼らが言うには、武器・弾薬はみんなロシアが持っていってしまったから、その後それがどう使われたかは分からないということでした。

 いよいよ日本人の引揚が近づいて、私は牡丹江の一般居留民をハルピンまで引率してくるよう指示を受けました。牡丹江駅に着くと、居留民の人たちはリュックサックを背負って駅前広場に並んで乗車を待っていました。
 そのとき民主連軍の人から、「衛生関係の技術を持った人を残していただけないだろうか。何人でもいいです。その人の生命と財産は必ず保障しますし、仕事が終わったら必ず日本へ帰れるようにします」という申し出を受けたのです。私は一団の人たちの中に衛生関係の仕事をしていた人がいるかどうか尋ねました。そしてその人たちに集まってもらい、「私は日本人だけれども、民主連軍のほうでどうしても日本人の協力者がほしいと言っているので、是非協力してやってほしい。私たちも仕事が終わったら、あなたたちと一緒に日本へ帰ります」と説明して了解を求め、民主連軍に引き渡しました。民主連軍へ行った衛生関係の人たちは、その後数年間国民党との内戦に加わって、満洲から何万キロも南下して広州や海南島まで行きました。中国は、この人たちの協力に感謝していますが、この中には私を恨んでいる人がいるかもしれませんね。
 私はそれ以外の一団の人たちを汽車に乗せてハルピンへ引き返しました。その途中の海倫という駅に着いたときですが、開拓団の人だと思うのだけれども、ぼろぼろの服をまとった婦人が出てきて、「いま日本人の帰国が始まったと聞いたので、私は出てきたのですが、本当でしょうか」と言うので、そうですと言うと、「私も一緒に連れて行ってください、連れて行ってください」といって坐り込んでしまったのです。私も困ってしまい、牡丹江にこういう友人がいるからと、坂谷君という友人に手紙を書いて、手持ちのお金も少し渡し、これを持って牡丹江に行くように話して、ようやく納得してもらったということがありました。
 そこから更に行った一面坡というところへ着いたら、今度は列車が止まって動かなくなったのです。こうなると食事の問題が出てきました。引率してきた人たちの飯をなんとか確保しなければいけないわけです。それで、中国の人に頼んで、近くから材料をかき集めて食べるものを作ってもらい、なんとかハルピンまで辿りつきました。これが1946年の夏ごろのことです。」


 満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』(1962年)は930ページに及ぶ大冊であるが、日本人の満洲からの帰国についても各都市ごとに精しい統計が出ている。いまそれによって少し補足しておきたい。
 筒井さんが活動したハルピンや牡丹江はこのとき共産党支配地区となっていたが、この地域からの日本人の帰国は、国民党と共産党の内戦が始まっていたために難航した。そして、米軍が仲介をする形で話し合いがつき、1946年8月20日から実行に移すことが決まったという。共産党側は共産党が支配している境界線まで日本人を「遣送」し、そこで国民党側に引き渡すという形をとった。そういう引渡し箇所が長春ほか5箇所に設けられた。そして、大半の都市では9月と10月にその「遣送」が行われた。因みに、ハルピンからは9月、10月に9万8587人の日本人が「遣送」され、牡丹江からは9月、10月で5079人の日本人が「遣送」された。そして共産党支配地区全体から「遣送」された日本人の数は、23万6759人に達したという。
 『満蒙終戦史』はこの「遣送」の状況を次のように記している。
 「かくて8月末から実際の遣送工作が開始されたが、何分にも内戦の巷と化したため鉄道線路は撤去されたり、橋梁は破壊され、トンネルは崩壊し、あらゆる障害の山積した悪条件下にあったため、中共側遣送担当官の労苦も並々でなかったろうが、遣送される日本人にとってはまさに生命がけの仕事であった。」
 そして次のように結んでいる。
 「なにしろ遣送決定が急であったため、留用者・戦犯らを除いても、奥地辺境の地にあって遣送のことを知らず、また知らせを受けて出てきたが、遣送列車に間に合わず、とり残された者がかなりあった。中共地区からの正式な集団遣送はこの時が最初で、しかも最後であった。そして6年後の昭和28年春、中共紅十字会の手によって再び遣送が開始されたのであった。」


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