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インタビューリスト


12 東北航校への参加

1986年ハルピンで再会した筒井さん(左端)と張成中氏(左から2人目)
 「日本人の帰国の仕事も一段落して、私は自分の身の振り方を考えることにしました。最初に牡丹江に着いたとき、民主連軍の人から、ここには東北民主連軍航空学校(東北航校)の人たちがいるということを聞いていました。ここで日本人居留民を帰国させる仕事をやっているときに、延安から到着した人で日本語のわかる張成中さんという人に出会いました。張さんに私の経歴を話し、張さんを通じて東北民主連軍航空学校に話をしていただいたのです。それで、林弥一郎さんたちが教えていた航空学校に入ることになったのです。張さんには、40年後ハルピンで思いがけない再会をしました。

 第4錬成飛行隊長だった林弥一郎さん(中国では林保毅で知られています)がこの学校の建設に参加されることになった経緯は、いろいろ書かれていますし、古川万太郎さんの『凍てつく大地の歌』(1984年)にも精しく出ていますから、私が申し上げるまでもないと思います。この学校もいろいろ曲折があったようですが、私が入ったときは、国民党が攻めてきて危なくなったため、通化からこの牡丹江に移って来ていました。」

――林弥一郎さんという方は人望があった方のようですね。

 「林さんは、叩き上げの人で実戦経験も豊富でしたから、飛行技術は素晴らしいものがありました。そういう点でも部下の信頼が厚かったですね。
 ところで、林さん自身は、「通化暴動」で嫌疑をかけられて、それまでは参議という行政的な仕事を与えられていたけれども、その役職を外され、主任教官としてパイロットの養成に専任されることになったのです。それまで林さんは人事権等の行政的な権限を持っていたのですが、それが延安から来た日本人民解放連盟出身の幹部の手に移っていきました。その総元締めにいたのが前田光繁さんです。前田さんは当時は杉本一夫と名乗っていました。解放連盟は東北地区(満洲)に来てからは、先ほどもお話ししたように、大塚有章さんたちの作られた民主連盟(民連)に合流していましたが、この東北航校においても民連が政治的・行政的な主導権をもつことになったのです。日本人の教官や整備員等の政治的問題をまとめたり、人事を決めたりする部門は、この東北航校では技術工作科(技工科)と言われていましたけれども、その科長が前田さんでした。この科長の下に幹事が5、6人いまして、その幹事がまとめ役や指導を行う、という組織形態になっていました。」


前田光繁さん
 1916年の生まれ。1938年(昭和13)、河北省で満鉄の子会社の現場監督をしているところで八路軍の捕虜になった。その後反戦活動に転じ、捕虜による反戦組織として最初の日本人覚醒連盟を結成する。延安で野坂参三の指導の下、日本人民解放連盟を結成し、組織の中核となる。終戦とともに満洲へ入り、その年の12月末、林弥一郎氏らがいる航空学校(当時の名は航空総隊)に政治部副主任として入った。「通化暴動」はその翌46年2月3日に起こった。「通化暴動」については前号「山下好之さん」の「8.通化から牡丹江・佳木斯へ撤退」の注を参照されたい。

 「飛行部隊のなかには、飛行機の理論を教える訓練所があり、飛行場で飛行学生に実際に教える飛行員と機務隊があり(私はここにいました)、そのほかにエンジンを修理する修理廠があり、部品を作る機械廠あり、材料廠ありと様々でした。全部で300名ぐらいいたと思います。
 私はそういう状況のなかで、途中から入っていって民連の幹部になりました。私は前田さんに技術系のほうをやりたいと言って、飛行技術を教える教員の幹事になりましたが、民連の組織に入っていない他の飛行教員から見たら、「あれは延安幹部だ、延安から来た人間だ」と見られていたようですね。つまり私は彼らにとって要注意人物であったようです。私の前で変なことを言うと、鶴崗炭鉱にやられるぞ、というようなことを話していたそうです。」

――飛行教員には林さんの部隊から来た人が多かったようですが、そういう人たちはやはり根強い反共意識があったと思いますので、表面は仕方なく共産党に従っていても、本心のところでは反感をもっていた人もたくさんいたでしょうね。

 「そういう面はあったかもしれません。ただ、八路軍の組織のありかたや教育の仕方の実態を見てきた私のような者と、日本の軍隊式のやり方にあまり違和感なくきている人との間には、個別の問題で考え方に違いが生ずるということがありました。
 具体的にどういうところにでてきたかといいますと、昔の軍隊のなかでの飛行教育のやり方は、着陸するのが早くてボーンボーンとバウンドするような着陸をしたりすると、お前は教えたことが何で分からないのだとすぐにビンタが飛んできたり、飛行場の土手を走らせたり,というようなことがあったのです。この飛行学校ではそこまでしないまでも、長年やってきた日本の軍隊式のやり方が、中国人を教育する場合に、ふとしたところに出てきてしまうということがあるのですね。
 しかし、このやり方を中国人に対してやるとまずいのです。中国式、特に共産党の教育に対する考え方は、相手によく分かるように教え相手が理解して初めて教育といえるので、言うだけのことを言ったらそれでいい、というのでは教育にならない。一方通行だけでは教育とはいえない、というのが中国式の考え方なのです。
 ただ、そうは言っても、実際に中国人に飛行技術を教えるという場面においては、いろいろな困難な問題がありました。
 まずお互いに言葉がわからないことでした。言葉の通じない教師と学生が同じ飛行機に乗るわけですから、これは大変なことでした。私たちも中国語をなんとか覚えようとしましたし、それ以上に彼ら中国人学生は日本語を理解しようと懸命でした。それで、日本語、中国語をちゃんぽんにしたような言葉が飛び交っていました。それでも通じないと、身振り手振りを交え、眼や表情を使って、全身でなんとか意思を伝えようとしたのです。
 操縦技術の伝達については、私自身が話すよりも、教えを受けた中国人学生の人たちが書いたものがありますから、それを見てください。」


韓明陽さん
 東北航校の第一期生。筒井さんに教わって中国空軍のパイロットになり、朝鮮戦争では隊長として爆撃機9機を率いて敵の指揮所を攻撃し、米軍将校の爆死を含む大戦果をあげ、その功により空軍英雄の栄誉を受けた人である。韓さんの「直上九九高練行」(『東北老航校』上冊、2001年、所収)から一部分を紹介する。(これは筒井さんの『新しい道と再会』のなかに翻訳して収録されている。)

 「1947年の春、校長は私たちに対して一つの重要な決定を伝えた。それは私たちが初級中級訓練をせずして、いきなり99高等練習機による訓練を始めるというものであった。これは大胆な考え方で予想もしなかったやりかたである。日本人教官から、この飛行機を一人前に操縦するには初級中級の訓練を終えて2,3年は必要だと聞いていた。
 飛行訓練は何組かに組織されて開始された。私の教官は木暮だった。
 飛行前に地上での訓練を重ねた。日本人教官は飛行航路のそれぞれの位置に立っていて、学生がそこへ来たとき質問を出して学生に答えさせた。離陸するときの動作で注意することは? 特殊の事態が発生したときは? 滑走、離陸、上昇、第一回旋回、ここの操縦で注意することは? 次々と質問が続く。途中で間違えると初めからやり直させる。こうしたことを何回もやって飛行の準備を整えるのである。
 5月7日、この日は感覚飛行をはじめる日である。その前の晩はみんな眠れなかった。私たち10人あまりはみんな明日の天気が心配で、時々外に出て空を仰いだ。星がたくさん輝いていて雲ひとつない空だった。
 信号弾が二発大空に発射された。初めての感覚飛行の開始である。二番目に乗るのが私であった。飛行機は滑走路から出発線へ出て、出発係りの白旗の合図を確認してから離陸態勢に入った。飛行機の速度が増し地上から離れ上昇しはじめたとき思いがけないことが起こった。座席下からゴミが急に舞い上がり、それが眼に入って涙が出、何も見えなくなってしまった。慌てて眼をこすりようやく外が見えるようになったら、飛行機は木暮教官の操縦のもと大空に飛び上がっていた。私は周囲を見た。曲がりくねった河、鉄道の線路、煙を上げて走る汽車、地上の一切のものは私の飛行機の下にあった。
 私はうっとりと見とれていたが、背中に触れるものがあるので、後ろを向くと木暮教官が右手を伸ばして合図をしてくれた。私は教官の表情から、私に操縦をしてみろと言っていることがわかった。私は操縦桿を握った。そしてそれを前後に動かしてみた。さらに左右に動かしてみた。また方向舵を足で左右に動かしてみた。私は嬉しく緊張し、恐る恐るやった。
 感覚飛行の講評として、木暮教官は、「一人前の操縦者になるには、操縦は大胆であるとともに細心でなければいけない。勇気があって柔軟でなければいけない。荒い操作が一番いけない」と話された。私は空中における動作が荒くならないために、飛行服に“柔軟”という文字を大きく書いた。そして私の座右銘として常に注意するよう心掛けてきた。

1986年訪中の際、韓明陽氏の自宅に招待された筒井さん
 その後の何十回かの訓練のなかで、私は一つの問題にぶつかった。着陸するときには1メートル水平飛行をしてから着地するのであるが、その技術がうまく摑めず、あるときは飛行が1メートルより高くなり、あるときは逆に低くなってしまう。これは非常に危険なのである。私は自信をなくしてしまった。
 このとき、木暮教官はいろいろな方法を考えてくださり、他の教官にも頼んで私と一緒に飛行してもらい、私の問題点を話し合ってくれた。その結果、私の場合は、地面を見る角度が正しくないからそのようなことが起こるのであるということになった。つまり視線が非常に近いところにあるために高度の判断が正確にできないのである。もっと遠くの方を見るようにと言われた。原因がわかって、それに気をつけるようにしたら操縦も次第によくなっていった。(以下略)」


劉玉堤さん
 東北航校の第一期生。朝鮮戦争に出撃し、敵機8機を撃墜して、中国人民志願軍空軍第一級戦闘英雄の栄誉を得た人である。その後北京軍区の空軍の最高責任者を務めた。劉さんの「我従這里飛上藍天」(同上『東北老航校』上冊、所収)から一部分を紹介する。(これも『新しい道と再会』に翻訳して収録されている。)

左から韓明陽氏、筒井さん、劉玉堤氏(1986年)
 「私は抗日戦争のとき、目の前で敵機の機銃掃射と爆撃により、平和な村が焼かれ、戦友が犠牲になった惨状を目撃し、私は必ず将来一人前の飛行員になって、この怨みを晴らしてやると胸中に深く誓った。
 1941年3月、上級に呼ばれ、延安に行って飛行機の学習をするように言われた。しかし、行ってみると飛行機や機材はなく、私は1945年まで延安で文化学習とロシア語の勉強をした。
 1946年6月、東北の飛行学校が正式に訓練を開始したとの連絡をえて、私たちは直ちにそちらに向かった。私の飛行機操縦者になりたい決心は少しも変わることはなかった。しかし、来てみると、信じがたいことに飛行教官の多くが日本人だったのである。これは私だけでなく、ほとんどの人にとって受け入れることができなかった。学校の幹部から、強力な空軍を作るためには、日本人の力を借りるしかないと説明を受け、なんとか納得した。
 私は入校するとすぐ飛行班へ行かせてもらうよう願い出たが、すぐにはかなえられなかった。そこで再三再四上級に願い出た結果、ようやく操縦のほうへ廻してもらうことになった。

劉玉堤氏夫妻から筒井夫妻に贈られた自作の書画
 一日も早く単独飛行ができるようにと励んでいたが、私は運が悪いことに風邪がもとで肺炎にかかってしまい、病院に入院する破目になってしまった。ちょうど単独飛行をやる時期であったので、私の気持ちは焦った。
 1947年の中秋節のとき、中国人教官が同乗して私たちの飛行を検査した。私の空中の操作はまあまあであったが、着陸のとき立て続けにミスを犯してしまった。先ず、フラップをたたむのを忘れてしまった。そして、操縦桿を前に押すのが大きすぎて、機内でつんのめってしまった。(もし教官がすぐに操縦してくれなかったら、私は間違いなくぶつかって死んでいたであろう。)教官は烈火のごとく怒った。それ以後その教官は私との同乗を拒否した。
 その後私は別の組に移され、木暮教官に教わるようになった。私ははじめ彼が日本人であるので警戒心をもった。しかし教官に接していくうちに、この教官は非常によい教官であることが分かってきた。私が入院して他の学生より遅れていることを知ると、一つ一つの動作に対して原理をよく教え、浅いところから深いところへ行くように一歩一歩教えてくれた。また暇があると、操縦練習台を使って前後に坐ってその要領を体得させてくれた。
 また飛行中は半分中国語、半分日本語で、我慢強く感情的にならず教えてくれた。一番難しい着陸のときも、「もう少し桿を引いて」とか「もう少しもう少し強く」とやさしく伝声管を通じて教え励ましてくれた。そしていつも、操作は女性が刺繍をやるように、やさしく柔らかくやりなさいと言っていた。(中略)
 現在思い出すと、あのときの木暮教官と呉ト教官の我慢強い教育が、私の飛行生活の良好な基礎を打ち立ててくれたのである。老航校は私をあの大空に送ってくれた。そして祖国の大空を三十年も飛行することができた。これは本当に両氏のお陰である。」

――1949年10月1日の中華人民共和国成立の記念式典では、飛行機が編隊で北京の天安門上空を飛行パレードし、それを毛沢東はじめ新中国の要人たちが見上げているニュース映画がよく流されます。それを操縦していたのは、筒井さんたちが教えた中国人パイロットの第一期生だそうですね。

 「あの日の記念式典には、私たちは10機の編隊を組んで、公主嶺から奉天(現瀋陽)の上空を飛んで編隊飛行を披露しました。林さんだけが隼に乗り、他の9機は99式高練で、私たち教官は後部座席で中国人の学生諸君の操縦を助けました。

中国人民革命軍軍事博物館に陳列されている99式高練の前に立つ筒井さん
 この式典が終わってから、飛行関係の日本人はすべて牡丹江に集結するように言われました。中華人民共和国が成立して、全国各地に国民党が持っていた飛行機・飛行場は接収されましたから、私たちが教えた飛行関係の技術者はみんなそうしたところへ散っていったわけです。彼らはそれぞれの地で指揮官になって、新しい中国空軍を作る役割を担うことになっていったのです。飛行学校も大きな改変が行われ、私たちのいた東北航校は第7航空学校となりました。
 一方、中国が統一されたことで新しい課題も出てきました。国民党でパイロットをしていた人たちがいたわけですが、こういう人たちをどう処遇し管理するかということは、一つの問題でした。国民党から来た人たちは技術的には高いものを持っているのですが、思想的にしっかりしてないということがあるわけですね。そういう人たちに人民解放軍の軍民一体の思想や規律をどう浸透させていくか、ということが問題でした。
 私たちが公主嶺にいたときのことですが、そのころ解放軍が国民党を追ってどんどん南下をはじめ、戦況が解放軍側に有利になっていました。そうすると国民党の軍隊から飛行機ごと解放軍の側へ逃げてくるのがいました。飛行機を持ってきてくれるわけだから、共産党、解放軍はそういう人たちを随分優遇したのです。しかし、彼らの頭の中はなにも変わってないのです。
 “飛行機を操縦していて空中で事故を起こすのはやむをえない、しかし飛行機が地上で事故を起こすのは最大の恥辱であると思え”、と私たちは言われていたものです。国民党からきたパイロットたちは、飛行機のなかでタバコを吸ったりしていましたが、あるとき地上を走っているときに飛行部隊の幹部をプロペラで撥ねて死に至らせてしまったことがありました。その撥ねられた人は方華さんといって本当に優秀な人で、これから中国を指導してゆくと期待されていた人でした。」


 筒井さんたちが教えていた東北民主連軍航空学校は、中国では“空軍創設期の航空学校”という意味をこめて「東北老航校」と呼ばれている。そして、ここにいた日本人は帰国してから「航七会」の名称で集まりを持ち、今日に至っている。


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