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14 40年後の再会
インタビューリスト
左から林虎氏、筒井さん、韓明陽氏(1986年、北京)
  「1986年に中国は空軍創設から40年ということで、記念式典をやることになったのです。協力した日本人もその式典に招きたいというので、私のところにも招待状が来ました。12日間の日程でしたが、北京での式典に参加した後、私たちに懐かしい瀋陽、長春、牡丹江、ハルピンと案内され、最後はまた北京に帰ってきました。その間行く先々で昔飛行機の操縦を教えた学生さんたちに会ったのですが、お互い再会できたことに感動しました。私たちがおこなった飛行機の操縦訓練というのは、教師にとっても学生にとっても、一歩間違えばお互いに命を失うような性質のものでしたから、いつも張り詰めたものがあり、それだけになにか特別な感情が残っているのですね。
  北京でこの式典を主催した林虎さんは中国人民空軍の副司令になっていました。彼は代表としての挨拶を終えると私のところに来て「木暮さん、よくいらっしゃいました」と言って、握手したまま私を中央まで引っぱっていきました。やはり私が教えた韓明陽さんもやってきて3人で肩を組みましたが、カメラやビデオが一斉に私たちのほうへライトを向けていました。

飛行機の後部の2人が筒井さんと呂黎平氏
  瀋陽で呂黎平さんに会いましたが、呂さんは空軍建設の大幹部です。戦争中は国民党に捕えられ、重慶の監獄に入れられていましたが、戦争が終わるといち早く私たちのいた飛行学校に来て訓練所の所長として活躍されていました。呂さんとのことでは忘れられない思い出があります。湯原というところで飛行訓練をしていたときのことです。呂さんが前方席、私が後方席に乗り、着陸しようとしたとき、突然後方からダダダーと機関砲の攻撃を受けました。突然の攻撃に、私は上昇して逃れるよりも、着陸して難を逃れた方が早いと判断し、飛行機を急降下させて飛行場の手前より水平飛行を長くして接地するとともに、ブレーキを一杯使用して停止するが早いか、呂さんに「逃げろ」と叫んで一緒に飛行機から跳び下りました。その直後2回目の攻撃を受けました。上空を見ると、2機編隊の米国製P51が南の方へ飛び去っていきました。あっという間の出来事でしたが、後で飛行機を点検して驚きました。私たちの飛行機は座席から翼にかけて弾丸が43発も命中していました。呂さんとあのときの思い出を語り合いました。ところが、このときの飛行機の写真を撮っていた人がいたようでして、それが雑誌に載っていました。これがその写真です。よくこんなときに撮ったものだと、私自身も驚きました。

筒井さんが不時着した現場に立つ張開帙氏(写真左)
  また、張開帙さんにも会いました。張さんは戦争中は国民党の中に入り込んで地下活動をしていましたが、戦後早く航空学校にきて活躍されていた方です。私が戦争中山東省で不時着したときの話をしまして、「あそこの百姓さんたちは自分のお父さんやお爺さんが日本軍に殺されているわけですから、あの不時着をしたとき、私らは百姓さんたちに殺されても仕方なかったのです。しかし、彼らは殺さないで、八路軍に連絡して引き渡してくれたわけです。そのお陰で、私は生き延びて中国の空軍に入って、少しご恩返しすることができたのです」というようなことを申し上げました。

筒井さんたちを八路軍に通報したお百姓さん
 その後張さんは山東省まで出向いて、省政府の役人さんたちに私の不時着した場所を探し出してくれるよう頼んでくれたそうなんです。不時着は私らの飛行機以外に国民党の飛行機もあったらしいのですが、村の古老たちに聞いて回って、ついにあのとき僕らの不時着した場所を突き止めてくれたわけです。これがその場所の写真です。そしてこれがあのとき八路軍に通報したお百姓さんです。94年に84歳で亡くなったそうです。

 この飛行機で不時着したのが私の25歳のときです。思えば、私は20歳で軍隊に入り、21のときに中国に渡って38歳までいました。足掛け18年中国にいましたから、私の青春時代はすべて中国で過ごしたことになります。わたしはそれを悔いてはいません。」(了)


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