私は昭和4年1月20日の生まれです。私が小学校3年のとき、母が32歳で亡くなりました。一番上の姉が小学校6年生で、女学校に行く準備をしていたのですが、母の死で行けなくなりました。一番下の弟は3歳でした。周囲の人たちは父に跡目をもらったらどうかと心配してくれましたが、しかし父は、若い人をもらってもし子供ができたりしたら、子供たちが苦労をするといって、その後は生涯独身で過ごしました。そういう点では、私たちは父に感謝をしています。 私の兄弟は5人おりますが、昭和15年(1940)、私が小学校6年生のとき、一家を挙げて満洲の太古洞開拓団へ行きました。ただ、私より2歳下の妹だけは、最初瀋陽にいた従兄弟のところに預かってもらいましたが、その後日本に帰って親戚のうちから女学校に入りましたので、私たちと別に暮らしました。 太古洞開拓団というのは、ハルピンから松花江を依蘭のほうへ行くその中間ぐらいのところにありました。 戦争が始まったのは、私が高等小学校を卒業した年でした。父は私になにか技術を身につけておいたほうがいいというので、ハルピンの義勇軍の看護婦養成所に行きました。そこに2年間通って、昭和20年3月に卒業しまして、看護婦の資格をとりました。そして5月に、密山(現東安)にあった義勇軍の診療所へ参りました。診療所といっても、お医者さんは街の方から来てもらっているようなところで、そこへ私たち卒業したばかりの看護婦2人が行かされたのでした。 7月には敵の飛行機が飛んできたりして、すでにもう危なくなっていましたが、ここで8月の終戦を迎えました。しかし、私たちは戦争が終わったことも知らずにいましたので、ソ連軍がどんどん入って来るのを見て驚きました。 新京(現長春)に義勇軍の司令部がありましたが、その司令部のほうから、女性や子供は早く避難させるようにという命令が来まして、私たちは着の身着のままで慌てて牡丹江のほうへ逃げていきました。仕事に使う車に女子供みんな乗りまして逃げていったのですが、白いものを着ていると目立って、ソ連軍の標的になってしまいました。私たちは密山まで車で来て、そこから鉄道の貨物車に乗せられましたが、途中野外病院があって、そこで臥せっている重傷の患者さんたちは鉄道線路の崖のところに寝かされていました。どうしてこんなところに寝かされているのかと聞くと、後の列車が来たときに載せるのだといっていました。しかし、看護婦さんがそっと教えてくれたところによると、その人たちにはみんな注射をして死んでもいいようにしているということでした。 それからさらに東京城を経て朝鮮との国境の方向を目指して南下してゆきましたが、夏の暑いときですので、途中川原で休んでいるときに、ソ連軍の車がやってきました。旗を立てて、女の人が運転していました。「あなたたちはもう負けたのだ。これから先へは行けないから、戻りなさい」と言われて、結局東京城に収容されるような形になりました。日本の避難民ばかりが集められているところで生活することになりました。 ソ連兵には囚人上がりの者が相当いるということでした。その人たちの身なりを見ると、縫っていない風呂敷のようなものを羽織っていて、貧しい感じがしました。その中にとても悪い人たちがいて、日本人から時計や貴金属を強奪したり、女性を強姦したりしていました。ソ連側の憲兵に通報すると、そういう悪い事をした者は銃殺されるということでしたが、しかし犯罪は後を絶ちませんでした。私たちはまだ子供に近かったからあまり心配はなかったのですが、女性を要求してくるのにたいして、そういう商売をやってた女の人たちが自ら買って出て犠牲になっていました。 10月になると、こちらは寒くなりますから、このままではやっていけなくなります。それで、中国人に話をして、私たちはそれぞれ分散することになり、私はある中国人の家に入ってそこの手伝いをすることになりました。ずっと一緒だった友達は、朝鮮人の家に入りました。私が世話になった家の主人は、部落の中の有力者でしたが、夫人は阿片の常習者でいつも寝ていました。 46年の春節(旧正月)をその家で迎えましたが、そこでは働く人も、家の人も、みんなで同じものを一緒に食べるという仕来りがありました。お餅などもつきましたが、向こうではそれをカンカンのなかに入れておくと凍ってしまいます。それを焼いて食べるのです。豚も1頭を殺して、どこも捨てるところがないように、すべてを使って料理していました。 旧正月が過ぎた頃、朝鮮人の家へ入っていた友達がきれいな朝鮮の服装でやってきて、私も一緒に牡丹江へ行こうと誘いました。ところが、後から朝鮮の家の人が追っかけてきて分かったのですが、彼女はその朝鮮の人のうちからいい着物ばかりを持って逃げてきていたのでした。その人たちは彼女を引っ張って帰りました。再び彼女が私のところへ来たときには、元の粗末な服を着ていました。それで私も中国人の家に別れを告げて、2人して牡丹江まで歩いて行きました。 牡丹江では東北民主連軍飛行学校で働くことになるのですが、私よりも一緒に行った彼女のほうが先にそこで働くことになりました。飛行学校の副校長さんは元国民党の人でしたが、この戦争は間違っているとして早くに共産党の方へ来た人です。その副校長さんのところに子供がたくさんいましたが、彼女はそこの子供たちの世話をすることになったわけです。 そのうち日本への帰国が始まりましたが、私は親たちがこちらにいてまだ帰っていませんでしたから、帰っても親戚の世話にならなくてはならないので、父が帰ってからのことにしようと考えていました。姉も看護婦として病院に勤め、その頃は奉天にいましたが、一番下の弟健雄を連れて帰国できるのを待っていました。父親はもう一人の弟康行と一緒に開拓団にいましたが、終戦後みんな学校に集結して、そこで一冬過ごしたそうです。米や野菜も持ち込んでそこで生活できるようにしていたそうです。それが幸いしたのか、父のいた開拓団ではそれほど多くの犠牲が出ないで1947年に帰国できました。 私は、友達が先に行っていた飛行学校に入って、衛生関係の仕事に就きました。そこで主人と出会いまして1950年に結婚しました。結婚式といっても、現在日本でするようなものではありませんが、それでも日本人がたくさんいて祝福してくださいました。また中国人の連長(中隊長)さんが特別の会食を準備してくださり、「今日は木暮教官と筒井看護婦の結婚で、みんなして祝福してあげましょう」と祝杯を挙げてくださったことを思い出します。」(了) 筒井重雄さんは、2001年には中国空軍創設55周年の記念式典に再び招待された。そして2005年には、抗日戦争勝利60周年の記念式典に夫妻で招待された。この式典については前回の山下好之さんのところで触れたので省略する。 |
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