logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


山下正男氏 第1回 1.忘れがたい出来事〜2.入隊

  山下正男さんは1923年(大正12)10月19日の生まれ。20歳の年1944年(昭和19)1月召集を受け、2月中国山西省で北支那派遣軍第1軍の部隊に編入される。45年1月陸軍予備士官学校に入学、7月見習士官となるが、間もなく終戦。
  戦後の山西省において日本軍残留事件が起こる。これは国民党系の軍閥閻錫山(えんしゃくざん)と日本軍第1軍の上層部が結託して起した一大陰謀事件であった。多くの日本軍兵士が残留を強制され、閻錫山の軍隊に編入されて、共産党軍と戦わされることになった。
  今年話題になったドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』も、この山西省残留事件を扱った作品である。
  山下正男さんは、将校の地位にあって、自らも残留しまた部下をも残留させなければならない状況に追い込まれた。
  国民党と共産党の戦いは、1949年4月に決着がつく。残留した日本兵の中からは多数の戦死者が出、生き残った者は全員捕虜になった。しかし、日本軍の総司令官や参謀長はいち早く脱出して帰国していた。
  山下さんは、捕虜として5年間を中国の収容所で送り、多くの仲間と共に1954年に帰国した。
  山下さんは帰国から10日後、山西省からの帰還者を代表して国会の証言台に立った。そして、「残留は軍の命令によるものであった」ことを強く主張した。
  この証言によって、国会での論議は、残留が軍命令により強制されたものか、自由意志によるものかということが焦点になった。
  その後参考人として国会に呼ばれた総司令官と参謀長の2人は、――彼らは前述のようにいち早く帰国を果たしていた――軍は終戦の段階で現地解散し、残留した兵士は軍籍を離れた上で自らの意志で閻錫山の軍隊に入ったのだから、「軍命令」はなかったと証言した。(なお、これら一連の国会証言については、インタビューの終わりのところで精しく紹介していただいた。)
  日本政府(厚生省)は、司令官たちの証言に最も近い判断を示し、残留は「自願」によるものであり、「軍命令」はなかったと断定。兵士は、除隊して勝手に残留したのであるから、負傷したり戦死した人に対して国家による補償はなされない、また生還した人も恩給の対象にはならない、とした。
  残留将兵たちは、「残留は軍命令によるもので、自願ではない。現地除隊措置は不当である」として国を告訴した。ところが、最高裁は2005年9月30日、「原告らに軍の命令があったとは認められない」と、原告の訴えを斥ける判決を下した。

  しかし、最高裁の判決でこの事件の決着がついたわけではない。山下さんは、日本が中国で何を行なってきたかを明らかにするために、この事件はきちんと跡付けておかなければならないと、一貫してその真相究明に取り組まれてきた。
  この事件は、山西省という一地域だけに止まらず、中国全土で展開された国民党と共産党の内戦、さらにはアメリカの介入等々が絡まって複雑な様相を呈した。
  今回お話を伺うに当たっては、残留日本軍と閻錫山の関係、その中での山下さん個人の体験、国民党と共産党の内戦の状況、さらにはアメリカの出方、といったものを相互に絡みあわせながら語っていただいた。そうしないと事件の全貌が見えてこないからである。
  山下さんには、この事件への反省をこめて、次代の人たちに向けて事件の真相を分かりやすく綴った『わが青春に悔いあり――終戦後の日本軍中国山西省残留事件』(2000年、自家出版)の著書がある。
  また、作家鹿地亘氏が『赤旗日曜版』に連載したドキュメント「<終戦秘話>不戦の誓い――山西軍第十総隊顛末記」(1966年5月15日〜67年1月8日まで35回)には、山下さんが主人公役で登場する。この連載のため、山下さんは鹿地氏に自らの体験を直接語り、ある場合にはメモを作って渡されたという。しかし、連載は鹿地氏の死去により第1部だけで終り、その後単行本等に収録されることもなかった。(新聞連載には毎回小室寛氏の挿し絵が載っていた。)
  今回のインタビューを起すにあたっては、上記の山下さんの著作と鹿地氏の新聞連載を大いに参考にさせていただいたが、そのほかに参考に用いた資料は、末尾に「参考資料」として一括して掲げた。

1 忘れがたい出来事

――山下さんは軍隊に行くまで、ずっとここ熱海で過ごされたそうですが、子供の頃のことで忘れがたいような出来事がありましたら、そんなところからお話しいただけませんでしょうか。

  「私は生まれたのは静岡県田方郡上大見村(現伊豆市貴僧坊)というところですが、父の弟に子供がなかったため、そこの養子に貰われて熱海に来ました。それが4歳のときのことですが、それまで伊豆で育ちながら、海を見たことがなく、熱海へきて初めて海を見て、その大きさに圧倒されました。
  ある日母に連れられて海岸に行きましたが、砂浜を歩きながら寄せては返す大波を見ているうちに、気が遠くなって倒れてしまいました。気が付いたら高塚医院のベッドに寝かされていました。「正男は大きな波を見て目が回ったんだよ」と母が言っていたのを記憶しています。

  私は子供の頃に熱海で起こった社会的事件の一端を垣間見たことがありまして、それが妙にはっきりと記憶に残っています。熱海の父は、材木店の製材工として働くかたわら、佐野彪太氏の別荘番をしていました。佐野彪太氏は東京青山にある佐野病院の病院長でした。
  1932年(昭和7)、治安維持法で非合法化された日本共産党が全国秘密代表者会議を熱海で開こうとしたことがありました。実はこの計画は、党内に潜入していたスパイMこと飯塚盈延によって筒抜けになっており、集まった11名の共産党員は全員逮捕されてしまい、組織は壊滅状態になりました。
  真相を知ったのは、もちろんずっと後になってからです。当時私は小学校3年生でしたが、この事件のある瞬間をこの目で目撃しました。
  年表を見ると、この「熱海事件」は10月30日に起こっていますが、その前夜、佐野別荘は異様な雰囲気でした。母が普段と違う厳しい顔で、「正男、今日は部屋から出てはいけません」「何を見てもほかの人には絶対に話さないこと。いいですね」と言いました。
  私は恐いもの見たさに戸の隙間からそっと覗いて見ましたら、防弾チョッキ、巻き脚絆の警官やハンチング帽を被った私服の警官が居間や外庭に大勢集まっています。囁くように低い声で話し合っていますが、足音も立てません。子供心にも不気味に思え、その夜はなかなか寝付かれませんでした。翌朝目が覚めると、母が「もう誰もいないよ」と言っていました。
  佐野別荘がどうして警察襲撃部隊の集結・突入拠点に利用されたのか、今もって分からないところがありますが、共産党の秘密会議が開かれる予定であった堤林別荘は、佐野別荘から裏の山道を駆け下りれば確かに至近距離にありました。
  しかし、ただそれだけではない何かの繋がりがあったのかもしれません。佐野彪太氏という人は、共産党の委員長であった佐野学の実の兄ですが、学は29年に捕まっていて、このときは獄中にいました。佐野家は皇室とも深い関係があった家です。

陸軍経理学校受験の頃
  小学校卒業直前に起こった近代日本史上最大の軍事クーデター2・26事件には、大きなショックを受けました。1936年2月26日の早朝、陸軍の皇道派青年将校たちが、政府の要人斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣らを殺害。別働隊(指揮・河野寿大尉)が、隣町湯河原の伊藤屋別館に滞在中の牧野伸顕元内大臣を襲撃しました。牧野元内大臣は、襲撃により燃え盛る旅館から裏山に逃れ、地元消防団に救われました。傷ついた河野大尉は陸軍衛戍病院熱海分院に入りましたが、決起部隊が「反乱軍」とされたことを知って、3月5日、病院裏の林で切腹し、翌朝死亡しました。
  その1ヶ月後に、私は静岡県立沼津商業学校に入りました。1934年12月1日に丹那トンネルが開通したので、熱海からも沼津へ通学できるようになったのです。
  私は、反乱に決起した青年将校たちに強い思想的影響を与えた国家社会主義者・北一輝の「国家改造論」や「昭和維新論」をむさぼり読みました。伝えられる農村の悲惨な状況などを知るにつけ、これは天皇が悪いのではなく、天皇の側近が悪い。いわゆる「君側の奸」を除くべし、という考え方に共感を覚えました。そして、北一輝が説く、国家権力の根拠を天皇大権に置き、満洲の地を我が領土にしようとする理論に幻想を抱くようになりました。
  商業学校では、静岡歩兵第34連隊から配属された現役将校による厳しい軍事教練が課せられました。私は、この教練にも積極的で、生徒隊長を務めるなど、かなり強烈な軍国主義青年に成長しました。少年時代から叩き込まれたこの軍国主義思想が、敗戦後の「中国に残って共産主義と戦うことは君国のため」という“残留理念”に、新たな使命感を抱く素地になりました。

 1940年には陸軍経理学校を受験しましたが、難関に阻まれ、1941年卒業後は、沼津の駿河銀行本店に入社しました。


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.