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山下正男氏 第2回:3.終戦〜4.8・15前後の中国国内の状況

3.終 戦

――これから後のことは、いわゆる「山西残留問題」と直接関わってくるように思いますので、出来るだけ精しくお聞きしたいと思います。

  私は第1軍独立歩兵第14旅団第244大隊に転属になりました。旅団司令部は山西省潞安(ろあん。現長治市)にありまして、旅団長は元泉馨少将、大隊長は布川直平大尉でした。この部隊は、通称で塁第1475部隊と呼ばれていました。
  ところが、私が潞安にきて半月もしないうちに、出し抜けに移動命令が出ました。
  「ソ連軍が満洲に侵入した。それを迎え撃つため東北に転進せよ」
  というものでした。部隊は直ちに潞安の大隊本部に集結し、武器弾薬を携えて東潞線に沿ってトラックで北上して行きました。
  しかし、様子が変なのです。それまで連日ひっきりなしに東潞線の車站(駅)爆撃にやってきていた米軍のP51が全然姿をみせないのです。普段なら空襲を避けて昼間は行動しないはずの部隊やトラックが真夏の炎天下を土煙をあげながら走っていきます。第244大隊は、沁県に着くと、そこに本部を置きました。私が配属された第3中隊は、沁県の次の駅である南溝の警備につきました。

――この段階では、日本の敗戦を知らされていなかったわけですね?

  日本の無条件降伏を、大隊本部から知らされたのは、敗戦の翌日の8月16日でした。全員集合し、中隊長から敗戦を告げられた私たちは、しばし茫然自失、熱い涙が止めどもなく流れてきました。
  8月20日の朝、私は陣地の望楼に上がって、ぼんやりと太行山脈の連なる峰と空を眺めながら、敗戦の事実をじっと一人で噛みしめていました。
  そのときでした。向かいの山の尾根を、八路軍の大部隊が北へ北へと急進しているのです。
  「これはただ事じゃない」
  私は望楼を駆け下りて中隊長に報告しました。中隊は直ちに戦闘態勢をとりました。
  このとき、けたたましく電話のベルが鳴り響きました。大隊本部を置いた沁県が2万近い八路軍に包囲されたというのです。

山西省全図

  塁兵団が満洲へ転進するために、潞安を放棄し撤退してからは、沁県が日本軍の後衛の第一線になっていました。もしここをやられたら、隣駅の小さな村南溝にいる私たちの一個中隊の警備隊などひとたまりもありません。
  午後3時ごろ、猛烈な砲声が轟き、沁県城内に火の手が上がりました。沁県を守るわずか一個大隊の日本軍と圧倒的勢力をもった八路軍の間で戦闘が始まりました。城壁を突破して城内に入ろうとする八路軍との間で、寄せては返す肉弾戦が展開され、城壁の周りは折り重なる死体で埋まっているということです。
  沁県と南溝との間の連絡は無線だけで辛うじて繫がっているという状態でした。南溝にいる私たちの中隊は進むことも退くこともできません。陣地にこもったまま、運命を待つばかりでした。
  数日の後、とうとう沁県の二つの城門が突破されまして、戦闘は城内に移りました。死傷者が続出して戦闘員の足りなくなった日本軍陣地では、若い朝鮮人「慰安婦」たちに迫撃砲弾の信管抜きをやらせました。
  刻々と入ってくる情報に、「もはやこれまでか」と私は覚悟しました。
  そのとき奇跡のようなことが起こりました。八路軍の大部隊は、血まみれの沁県城をあとにして、潮の引くように引き上げて行くのです。僕らのいるちっぽけな南溝の部落なぞ眼中にないかのように、どんどん北上してしまいました。
  何が起こっているのか、まったくわけが分かりませんでした。しかし、とにかく包囲が解けて、大隊本部との連絡も回復し、生き延びられたことでほっとしました。
  後になって分かりましたが、実はこのとき蒋介石国民党の大軍が同蒲線の南部に集結して動き始めたということでした。そこで八路軍は、この新しい情勢に立ち向かうために、私たちの眼前から姿を消したのです。


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