戦後の中国で、5万400人もの日本人が死んだという厚生省の統計記録があります。これには、満洲は含まれていません。満洲は、ソ連の侵入で夥しい数の日本人が犠牲になったと言われますが、それでも犠牲者の数は2万人に達しません。戦後の中国本土で、どうして満洲の倍以上の犠牲者が出たのでしょうか?
実は、その謎を解き明かした本が出版されています。大庭忠男さんの『戦後、戦死者五万人のなぞをとく』(本の泉社、1999年)という本です。これを見ますと、夥しい戦死者が出た原因は、ひとえに総司令岡村寧次の上に述べた命令によるものであったことが、たいへん明快に説き明かされています。
この命令に基づいて、日本軍は中国各地で武装解除を要求してくる共産党軍と衝突し、死ぬ必要のない大勢の人が亡くなったのです。5万人を越えた犠牲者のほとんどはそれによるものです。
9月9日、岡村寧次は、南京で日本を代表して中国に投降する降伏文書に調印しました。
これ以後、国民党の司令官たちが日本軍の占領していた南京、上海、北平(北京)、天津などの大都市に入っていって、日本軍の武装解除を進めます。しかし、共産党軍が武装解除を要求してきた場合は、日本軍はそれを拒否し、すべての地で徹底抗戦し、武力衝突を起したのです。
岡村は、このように終戦の時に国民政府に尽くした“功績”によって、蒋介石から手厚い保護を受けました。そのため、東京裁判が始まって、極東国際軍事裁判の法廷から岡村を帰国させるよう二度にわたる要請があっても、国民政府は「岡村は今病気療養中である」として彼を庇い、一切要請に応じませんでした。
もし帰国させて、東京裁判で裁かれていたら、陸大同期の土肥原賢二や板垣征四郎と同様に絞首刑に処せられていたことは間違いないと思います。あの悪名高い「三光作戦」(焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす)は、岡村が総指揮者として自ら命令したものであったわけですから。日本人はほとんど知ることのない岡村寧次の名は、中国での日本人の知名度としてはとても高く、東条英機、山口百恵、田中角栄などと並んでよく知られているのです。「三光作戦」を発動した人物としてですね。
ところが、このような岡村に対し、国民政府の軍事法廷は、東京裁判の終結を待って、1949年1月26日岡村に関する最終公判を開き、無罪判決を言い渡しました。そして岡村は1月30日米国船ジョン・W・ウィークス号で日本に向け出航しました。
岡村の乗った船が上海港を出港した同じ日、北京の中国共産党から、「判決は無効である。岡村をもう一度北京で裁判にかけるべきだ」という電報が国民政府に届きます。国民政府は、「岡村は、すでに手の届かぬ公海上に出てしまった。それは不可能だ」と答えました。
しかし、共産党側は諦めませんでした。なにしろ岡村は共産党が戦犯第1号に指定した人物であったからです。東京の駐日代表団の商震団長にも同様の打電をし、さらにGHQに対しても、「中国人民解放軍は、岡村を連れもどし、ふたたび裁判にかける権利がある」と要求しました。商震はGHQと協議し、その要求を握りつぶしました。
アメリカも、東京裁判を開廷した頃と、中国で共産党の勝利がほとんど確定的になったこの時点とでは、東アジアの状況認識が変わってきていました。マッカーサーは、「岡村の問題は解決済みである。もし岡村を引き渡せば、共産主義者の政治目的に利用される結果になる」として、共産党の要求を拒否するよう命じました。
自分の運命を左右する多大の恩義を蒋介石・国民党から受けた岡村が、日本に帰国してから蒋介石総統への“恩返し”の行動を起すわけですが、それについてはまた後ほど触れたいと思います。