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6 戦争中の山西省

――山下さんのいらっしゃった山西省には閻錫山(えんしゃくざん)という日本贔屓の軍閥がいて、抗日戦争中も日本軍と取引が行われていたと聞いています。中国のなかでも特異な状況下にあったようですが、その実態をお話しいただければと思います。

 終戦のときまで山西省を軍事占領していたのは、北支那派遣軍第1軍でした。太平洋戦争が始まるまでの第1軍は、もっとも優秀な装備をもった甲編成の3個師団と乙編成の1個師団に独立混成旅団3を加えた総兵力9万を擁する強力な軍隊でした。
 ところが、アメリカとの戦争が始まり、太平洋の戦況が緊迫してくると、第1軍の優秀師団は次々と南方に転出させられまして、終戦直前の第1軍は、乙編成の第114師団、独立混成第3旅団、独立歩兵第14旅団など総兵力5万9千の軍隊になっていました。

閻錫山
 閻錫山は1883年の生まれですが、日本の陸軍士官学校を卒業した後、辛亥革命に呼応して兵を起し、山西の長官になりました。彼は早くから軍事と経済の基礎を固め、自給自足の「山西王国」を作ろうと考えて、「山西モンロー主義」を実行しました。
 そのために、閻錫山は、日本・フランス・ドイツなどから設備と技術を導入し、山西省内に製鉄工場や紡績工場、その他軽工業などの一連の工場を作りました。
 日本からは大倉鉱業の技術者と機械を入れるなど、日本との関係は密接でした。

 盧溝橋事件後、日本軍の侵略に対して、中国国内には抗日民族統一戦線が形成されましたが、閻錫山は側近の部下を密かに天津に派遣し、支那駐屯軍司令官梅津美次郎と交渉を行い、「山西省は中立を保持するとの条件で、日本軍が山西省に進攻しない」ことを認めさせようと画策しました。

 しかし、1937年、日本軍の第1軍は山西省を攻略し、軍司令部を太原に置いて、閻錫山にかわって山西省を支配しました。
 中国本土で全面戦争を展開した日本軍は、1940年ごろから戦線の拡大が不可能であることを悟り、閻錫山を日本軍に協力させ、彼を華北一帯の親日政権の総帥に据えようと画策しました。
 当時の第1軍参謀長田中隆吉は、「共同して八路軍を消滅する」という名目で閻錫山の抱き込みを図りました。
 田中は北支那方面軍司令部のスパイ機関である「茂川公館」を太原に設置しました。また、第1軍も「晋中公館」を設けて、この交渉の連絡機関としました。
 日本軍は、山西省の豊富な資源の確保と八路軍に対抗するために、閻錫山の抱き込みに懸命でした。日本軍との交渉にはいつも閻錫山の甥が当たっていましたが、彼は二言目には“伯父が、伯父が”と言いますので――“伯父”は閻錫山のことです――日本側ではこの抱き込み工作を「対伯工作」と名付けました。
 閻錫山は、はなはだ老獪で打算的な人物でした。「曲線救国」という彼一流の保身戦略で、蒋介石に忠誠を誓って国民政府軍になったり、日本軍とは「共同反共」で停戦協定を結び、八路軍の動向を日本軍に通報したりして延命を図っていました。
 彼は公には投降しませんでしたが、日本軍との交渉で利益を手に入れることを企み、いろいろ裏交渉を進め、1942年には日本軍と次のような協定を結びました。
 「日閻両軍は交戦を停止すること。
 八路軍に対して共同行動をとること。
 双方は現在の占領境界線を越えないこと。」
 この協定を結んだ後、閻錫山は妹婿・梁綖武(りょうえんぶ)を太原に駐在させて、日本軍との連絡の責任を負わせました。
 閻錫山はまた、第1師師団長趙瑞(ちょうずい)と第2師師団長楊誠(ようせい)を投降の形式で、部下を率いて日本軍に身売りさせました。
 日本軍はこの2つの部隊を「山西剿共軍」に改編し、日本軍の傀儡部隊として八路軍攻撃に加担させました。
 そして1944年には、日本軍は趙瑞を山西省保安副司令に任命して、全省の保安隊を掌握させ、閻錫山軍と共同して八路軍に対抗させました。


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