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8 日本軍上層部の企み

――お話を伺っていますと、日本軍はただ閻錫山の武装解除を待っているというのではなく、むしろ積極的に閻錫山を担ごうとしているようです。彼らはどういうことを考えていたのか、それから、その中心になっている日本軍側の主だった人物を紹介していただけませんか。

 第1軍の上層部のなかには、閻錫山が日本軍を留用しようとしている策謀を逆に利用して、日本軍の武装組織を山西省に温存し、やがて起こるであろう第3次世界大戦に備えて、日本軍の捲土重来の基礎を作っておこう、と考える人たちがいました。
 その中心になったのが、第1軍司令官澄田賚四郎(すみたらいしろう)中将です。澄田司令官は、日本軍が仏印に侵攻したころのハノイ駐在の特務機関長で「澄田機関」と呼ばれ、重慶の国民政府からは戦犯に指定されていました。


澄田賚四郎(すみたらいしろう)
 名前の「らいしろう」の「らい」の字は、澄田の場合は「貝」が左、「來」が右であるが、ここで使用できる文字には「貝」が下、「來」が上の正字「賚」しかない。とりあえずこれを用いておく。

澄田賚四郎
 澄田はさまざまな局面において優柔不断なところがありました。日本兵の代表として閻錫山と交渉するというよりも、むしろ戦犯指名を解除してもらうために、閻錫山の策謀に迎合して「功績」を立てようとすらしました。
 彼は自らは表に立たないで、第1軍参謀長山岡道武少将、情報参謀岩田清一少佐らに、この陰謀計画を推進させました。
 閻錫山は、戦犯指名の澄田軍司令官を第2戦区司令部の総顧問に据えて、豪邸を与えました。彼は日本に帰国後出版した自伝『私のあしあと』に次のように書いています。
 「私は軍司令官という地位の関係から軟禁は名目だけで、三浦中将と私の二人は閻の特別の計らいで各々一軒家が与えられた。もと独逸人技師のために建てたという立派な家、外出の際は乗用車が提供され生活には何ら不自由もなく、俘囚の苦情など味わうことが一日もなかった。
 昼は晴るればフナ釣りに出かけ、夜になると囲碁はもちろん麻雀、ときには玉撞きなども嗜みつつ無聊を慰めることができたのは幸いであった。」
 なお、澄田智日銀総裁(1984年〜89年在任)は澄田軍司令官の長男です。

 第1軍参謀長の山岡道武少将は、参謀本部ロシア班におり、大使館付武官としてソ連軍の動向を調査していました。
 第1軍の参謀長となってからは、山西における中国人部隊の育成・強化に積極的でした。
 澄田軍司令官が戦犯として“軟禁”されるや、公然と「太原戦犯世話部」を開設しました。

――「戦犯世話部」とはどういうものですか。

 後でも述べますが、一般の残留させられた兵士は、「自ら残留を願い出る」という形式をとらせて残すことにしたのです。しかし、高級指揮官の場合には、そのような形はとれません。そこで、山岡は“妙案”を作り、高級指揮官は戦犯の面倒を見る、という名目で留めることにしたのです。
 当時、南京と北京には「戦犯世話部」というものができていて、参謀級の現役将校が獄中の戦犯を世話するために留まり、差し入れをしたりしていました。
 ここ太原でも、澄田総司令をはじめ、三浦三郎中将、恩田忠禄大佐ら12名が戦犯に指定されていました。山岡は南京や北京にならって、第1軍に「太原戦犯世話部」を作り、自ら部長に任じ、戦犯連絡人あるいは証人の名義で十数名の現役将校をそれに当てました。これは米軍司令部の同意を得られましたから、いわば“合法的”な形式で現役将校たちを残留させることができたのです。「太原戦犯世話部」は後に「太原日本連絡班」と改称されました。
 「太原日本連絡班」は、軍参謀の岩田清一少佐をはじめ山西残留工作を積極的に推進した有力将校らによって組織されました。
 山岡道武を班長とした「太原日本連絡班」こそ、山西残留日本軍の中核であり、参謀部でした。
 閻錫山は、山岡参謀長を第2戦区司令部副総顧問に任じ、彼にも邸宅を与えました。

 陸軍大学を卒業して第1軍参謀として赴任してきた岩田清一少佐は、才気走った将校でした。
 軍直轄の便衣部隊「桜部隊」を指揮するなど謀略活動を担当すると共に、山西省における日本軍の軍事支配を補強する中国人部隊=保安隊の育成、拡大強化に懸命でした。
 岩田参謀は、終戦直後の9月から、「日中双方が志を合わせて共に事を謀る」という意図から名付けられた「合謀社」という謀略機関で顧問となり、残留部隊編成を練り、実行しました。
 私は、この岩田参謀に引き抜かれまして、残留の大半をすべて彼の下で活動しました。岩田参謀グループの活動の根城は、閻錫山から与えられた岩田公館でした。この岩田邸には私はしばしば出入りすることになりました。
 彼は、情報参謀ですから、阿片の売買だとか便衣隊を使ったりするのが仕事です。だから裏の資金をたっぷり持っていました。あるとき、「山下、金のことは、あまり心配するな」と言って、床をはぐって見せてくれたことがありましたが、リンゴ箱のようなものがいくつかあって、その中はすべて銀貨がぎっしり詰まっていました。

 東大法学部で南原繁の門下生であったという予備役中尉の城野宏(じょうのひろし)は、中国名「李誠」を名乗る中華民国山西省政府顧問補佐官でした。
 彼は、名目上は国民党南京政府の招聘者でしたが、実質上は山西派遣軍・第1軍司令部の政治要員、つまり特務でした。
 8・15の後、城野宏は澄田軍司令官から、「これからは、君が長いこと蓄積してきた中国側との関係を活用して活動してくれ」と言われました。
 城野宏は、「合謀社」で軍事組長として閻錫山側の内部人員となり、政治宣伝のイデオローグとして、「祖国復興」「山西残留」の理念を将兵や居留民に浸透させようとしました。

 元関東軍の高級参謀で張作霖爆殺の首謀者河本大作は、陸大同期の岩松義雄中将が第1軍司令官に着任すると、資源総合商社・山西産業株式会社の社長となり、軍への調達金作りと「対伯工作」(閻錫山抱き込み)で暗躍しました。彼は陸軍参謀本部が直接派遣した特務の親玉でした。
 彼は「川端大二郎」と名を偽り、日本敗戦後も閻錫山の庇護のもとに西北実業公司の総顧問として実権を握りました。この西北実業公司という会社は山西産業株式会社が名前を変えたものです。
 河本はまた、戦犯澄田賚四郎らの無罪釈放を画策し、第1軍が残留部隊を組織することを助けるとともに、日本人技術者の強制残留を画策しました。
 私は、河本大作こそ、山西残留陰謀事件の最大の黒幕だと思っています。

 山西省は、中国共産党の根拠地があり、一方で北方の外蒙を絶えず注視しなければなりませんから、日本軍にとっては反ソ反共の重要な戦略要地であったわけです。だから、第1軍の高級将校には、こうした特務・参謀畑の軍人が多かったのです。


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