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10 後衛の第一線にて

――山下さん自身は、こういう事態が進行していたとき、どこにいたのですか?

 8月20日から数日間、沁県が八路軍の猛攻撃を受けましたが、八路軍が急に転進したため、壊滅を免れたことは前のところでお話ししました。私たちの部隊はその後も依然として東潞線の南溝で警備についていました。
 閻錫山が太原に入城を果たしてから一月あまりして、ここ東潞線にも北の太原、楡次から日本軍を武装解除するための閻錫山軍の降伏受理部隊がぞくぞく繰り込んできました。
 ところが、奇妙なのです。今度こそ我々を武装解除するかと思ったのに、閻軍は形式的に余分の武器を接収しただけで、日本軍から一向に武器を取り上げる様子もないのです。部隊はそのままこれまでどおり警備に立たされていました。
 警備の名目は、日本軍復員部隊の送還にあたる鉄道輸送の援護に協力するため、というのです。日本への帰還は、楡次、太原の周辺に終結して、そこから石太線で石家荘から北京へ向かうか、北同蒲線を使って大同から張家口を通って北京へ向かうか、この二つのルートしかないのです。
 しかし、東潞線では、私たち244大隊のいるところが最後の線で、南溝、沁県から後方つまり南には、援護してやらなければいけない復員兵など一人もいないはずです。
 降伏受理のために入ってきたはずの閻軍は、その一部が日本軍と一緒に鉄道を警備したけれども、さらにぞくぞく入ってくる閻軍は、日本軍の警備する地域を越え、先へ先へと繰り出して行くのです。
 後で分かったことですが、私たちは、復員援護でなく、解放区に進出して行く閻錫山の大軍を援護しているのでした。陝西省に撤退していた閻軍の主力部隊が、日本の敗戦で山西省に続々と帰ってきて、いよいよ本格的に共産党の支配する解放区に攻撃を開始しようとしていたのでした。
 これらの閻軍は第7軍副軍長彭毓斌(ほういくひん)に指揮された2万の部隊でした。この部隊が、史沢波(したくは)の率いる第19軍と呼応し、東西挟み撃ちで、太岳、太行の解放区に掃討作戦を始めたのです。
 日本軍第1軍の塁兵団からも、援護部隊が配置されました。
 10月2日、彭毓斌の2万の部隊は太岳の老爺山の山中で、解放軍の仕掛けた網にかかってしまい、気が付いたときには逃れる隙もありません。激戦4日間、日本軍をふくむ2千がぼろぼろの敗残兵になって、沁県まで逃げおおせてきました。あとは完膚なきまでにやられてしまいました。
 10日には史沢波の軍2万が上党地区で捕捉されてしまい、完全に壊滅してしまいました。
 これが、終戦後始まった中国国内戦争の最初の激戦として知られる「上党戦役」です。閻軍の死傷者5千余、捕虜は軍長の史沢波をはじめ3万5千に及びました。このとき塁兵団からも相当の犠牲者がでました。
 しかし、南溝にいた私たちにはそんな形勢もわかりません。ひたすら帰国の時を待ちながら鉄道警備を続けていました。


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