私たちは不安と疑惑のなかで日を送っていましたが、そこへ一旦姿を見せなくなっていた八路軍がまた現れました。「上党戦役」で閻錫山の軍隊を撃破したので、戻ってきたのでした。
私たちのいる南溝の日本軍陣地の前は、河を隔てて高台になっていました。その高台と河の間を自動車道路が走っているのです。
八路軍は道路を見下ろす高台の上まで出てきました。だんだんその数が増えていって、道路は通じなくなり、南溝は孤島になってしまいました。
だが、八路軍は急に攻めてくる様子はありません。日本軍さえ手を出さなければ、衝突はほとんど起こりません。
夜になると、八路軍の兵士たちは高台を下り、道路を越え、河原までいっぱい出てきました。
私は小隊長でしたから、その巡察をきびしくしていました。ある晩私は一つの分哨陣地の望楼を訪れていました。そのとき、河向こうから声が聞こえてきました。
「第3中隊のみなさん、こちらは日本人民解放連盟です。――」
メガホンで呼びかけているようですが、りっぱな日本語です。銃眼から闇を透かしてみましたが、どのあたりにいるのか見当がつきません。しかし、声は続きます。
「戦争は終りました。われわれは一日も早く国に帰りましょう。長らく心配をかけてきたお父さんやお母さんが、あなたがたを待っておられます。
平和な民主日本を作るため、われわれの岡野進先生は同志の人たちと共に、一足先に日本に向けて出発されました。
ところが、いま山西省では、日本軍のあなたがたを残す企みが進められています。
しかし、それはまちがいです。――まちがいです。」
望楼の兵士たちは、顔を見合わせて騒ぎ出し、ある者は急いで銃眼に駆けつけました。そのうち、兵士たちは立ったまま腕を組んだり、耳の後ろに手を当てなどして、一語も聞き漏らすまいと、河向こうからの声に耳を傾けました。
放送が終ると、兵士たちはすっかり興奮して、あれは日本人か朝鮮人かなどと議論を始めました。「オカノススム先生」と言っていたが、それが一体何者であるのか、誰一人知る由もありません。(ずっと後になって野坂参三が中国で名乗っていた名前であることがわかりました。)
放送が、また始まりました。
「閻錫山と軍司令部の馴れ合いの残留計画が進行しています。これは、日本の兵隊が中国人民の敵を助けて犬死をする道です。
あなたたちの任務は、祖国を住みよい民主的な国にするため、一日もはやく帰国することです。――」
そして最後に、メガホンの主は、慰問のためと言って、我々に「木曽節」を歌って聞かせました。
解放連盟はその後もたびたび現れました。だんだん大胆になってきて、夜こっそり河を渡り、望楼に近づいて、土産の「肉包み」を届け、河向こうからそれをメガホンで知らせるようなことをしました。
兵隊たちは河向こうからの贈り物に沸き立ちました。八路軍の包囲で道路は塞がれ、部隊の補給は日ごとに困難になっていましたから、毎日黒豆ばかり煮て食うような日が続いていたのです。
私はそれを耳にして、「おまえら、食ったのか?」と問うと、「食いました」と言うのです。私は立場上「ばかっ、毒が入ってたらどうするんだ」と言ってはみましたが、彼らの胃袋の中でとっくに検査済みだったわけです。
解放連盟はその後、ここだけではなく、同蒲線の沿線のいたるところに現れたようです。出現するのはいつも夜でした。部隊の本部から少し離れた分哨などでは、酒をもってきて望楼のなかまで入り込み、話し合って帰ったのもいたそうです。