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12 在留邦人の留用

――太原には戦前から日本人経営の企業もたくさんあり、日本人も多かったそうですが、この人たちは戦争が終わってどうしていたのでしょうか。

 太原には、東洋紡、浅野セメント、大倉商事、東亜煙草など日本の企業がたくさん進出していましたし、華北交通の社員もいましたから、戦争が終わったとき、2万余の民間人が在留していました。この中には、終戦間際の45年3月から6月の間に現地召集を受けて軍隊に入れられたものの、終戦とともに除隊した退役軍人もたくさんいました。
 太原にはまた、重工業・軽工業の工場を一手に集中し、34の会社を統括する一大国策会社・山西産業株式会社がありました。この会社は山西省の豊富な地下資源もすべて押さえていました。これらは、山西に日本軍が侵攻したとき閻錫山が残していったものですが、そのあとは軍が管理していました。1943年、軍から民間会社に切り替え山西産業株式会社として新たに発足することになり、満洲から河本大作が赴任してきてその経営にあたりました。
 日本軍が占有していたこうした山西省すべての重要施設は、日本の敗戦から一月余りのあいだに中国に接収されました。しかし、これらの施設を動かしていくためには、日本人の技術者なしではできないことを、閻錫山はよく承知していました。
 山西産業も中国側に接収され、西北実業公司と名を変えますが、河本大作は閻錫山から、是非太原に留まって従来どおり経営してほしいと依頼され、西北実業公司の総顧問に就任しました。そして戦前同様に実権を握りつづけます。
 山西には在留邦人の要になる組織に「太原日本居留民会」がありましたが、河本はその会長も務めていました。

河本大作(満洲にいた頃。写真は平野零児『満洲の陰謀者』より転載)
 河本は、経営する会社の社員だけではなく、一般居留民にも絶大な影響力をもっていましたので、彼の説得によって山西に残留することになった日本人は多かったのです。
 閻錫山が太原に帰ってきて第1軍首脳との会談がもたれてから数日後、第1軍司令部から居留民会に1通の「通告書」が送られてきましたが、その中にこんな一文がありました。
 「山西派遣軍は晋綏軍の要求により、特に一部の兵員を残置して省内において晋綏軍の共産軍討伐に協力する。」
 「晋綏軍」というのは閻錫山の軍隊です。河本はこの通告書を居留民全戸に配布させました。これを見て、日本軍の一部が引き続き太原に残るということが分かって安心し、長期の残留を決意した人たちがかなりいました。
 そうしたところへ、中共軍による山西省の孤立化を狙った石太線・同蒲線の爆破事件が起こります。前にも述べましたが、山西から日本への輸送には、石太線を使って石家荘を通って北京へ向かうか、北同蒲線を使って大同経由で北京へ向かうか、二つしか方法がありません。その大動脈が爆破されたので、日本への帰国は不可能になりました。
 このため、すぐの帰国を断念した在留邦人もたくさんいました。これは、日本人を一人でも多く残したいと考えていた閻錫山にとっては、有利な状況の展開になりました。
 彼はこの鉄道の修復も日本人を使ってしようと考え、「軍人、居留民を早く帰国させるためにも、石太線・同蒲線の鉄路の修復は急務である」と言って在留邦人による鉄路隊を要請しました。こうして一般在留邦人を主体にした鉄路警備隊が組織されます。この組織は、華北交通の元社員や退役軍人が多数を占めていました。
 ところが、鉄道沿線で八路軍との戦闘や小競り合いが頻発するにつれて、日本軍の一部や閻錫山の軍隊が加わるといった形で、軍民共同体的な軍隊として組み換えられて行きました。
 そして、第114師団の予備役少尉古屋敦雄が、在留邦人部隊として「山西省鉄路公路修復工程総隊」を結成します。古屋は元青島特別市警察の警察官でしたが、敗戦前に山西にやってきた男でした。
 この組織は、やがて第1軍の残留部隊編成の過程で「特務団」の中に吸収されていきます。


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