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山下正男氏 第7回:13.特務団の編成〜14.「山下少尉! おまえ残らんか」

13 特務団の編成

――閻錫山と日本軍の間では、日本兵残留計画がだんだん具体化していったと思いますが、実際にはどういうことが行われたのでしょうか。

  日本軍は閻錫山との協議に基づいて、閻軍の訓練班を作りました。これはかなり早く、終戦の年の秋ごろから始まります。各兵団から将校、下士官、兵士を出させて「教官隊」を結成し、将校は教官、下士官は助教、兵士は助手として、閻軍兵士の訓練に出向かせました。期間は大体2ヶ月とし、それを終えるとまた原隊に帰ってくるというやり方です。
  閻錫山は、「中国人の将兵は、日本人教官に絶対服従すべし。日本軍隊の“ビンタを張る”方式で、ビシビシやってもらいたい」と、訓練班に大いに期待しました。日本の士官学校に留学したことのある閻錫山は、日本式軍隊教育が一番だと思っていたのです。

  閻錫山はできるだけ大規模に日本残留軍を作りたいと考えていましたから、日本軍としてはその要求にどういう形で応えるかが課題でした。山岡道武参謀長は閻の要求に沿った具体案の作成を岩田清一参謀に命じました。
  岩田は、1945年末までに「特務団」という名称で、残留日本軍を編成する計画を立てます。その規模は、司令部の下に7個歩兵団と特殊部隊、病院、生産機構等併せて約1万5000人、おおむね日本軍の完全編成1個師団に相当するものでした。
  一方で、山岡は城野宏にこう命令しました。
  「残留軍隊は着々と組織されていっているが、それはもはや天皇の軍隊ではなくなった。もしこの軍隊の真の意義を明確にできないならば、日本軍隊をかつてのように強固に団結し統率していくことは不可能である。そのためには政治思想教育を強化して隊員全体に政治信念を持たせることが必要である。」
  これを受けて、城野は岩田の同意を得たうえで特務団司令部に「政治部」を作り、将兵に対して「祖国復興のため、山西に留まり、閻錫山と互いに助け合おう」といった「残留の理念」を宣伝しました。
  1946年1月末、山岡参謀長は北京に飛び、特務団編成問題で北支那方面軍司令部の“同意”を取り付けて、太原に帰ってきました。北京の司令部は、「残留は復員命令違反だが、中国側の要求なら仕方あるまい」と黙認することにしたのです。これで、日本軍残留部隊を組織するのは“合法”のお墨付きを得ました。
  山岡が帰ってきてから、第1軍は2月1日、各所属兵団、部隊の将校、下士官、兵士代表ら200名を召集して、軍司令部大礼堂で「特務団成立大会」を挙行しました。
  会議は、山岡参謀長が主宰し、岩田参謀が部隊編成問題についての具体的な指示を行い、城野宏が「残留理念」に関する報告を行いました。
  岩田参謀は、「特務団編成は、わが軍が復員帰国するために必要な措置であり、それは“後衛尖兵”の役割を果たすものだ。よって、特務団編成は決して復員命令に違反する行動ではない」と強調しました。
  そしてその翌日、1946年2月2日、第1軍は所属部隊に対して、特務団の編成を命令しました。この日第1軍参謀長(山岡道武)名で各部隊に発信された命令書が「鉄道修理工作部隊徴用ニ関スル細部指示」(乙集参甲電第107号写)として残っています。この資料は、山西残留をめぐる裁判とも関係してきますので、「特務団」がなぜ「鉄道修理工作部隊」というような名称を用いたのかということも含めて、また後で触れたいと思います。
  第1軍がこの命令を出すと同時に、山岡や岩田、城野らは、閻錫山の部下と日本軍将兵とを組み合わせた「宣導隊」を各部隊に派遣し、残留工作を強めていきました。
  しかし、いくら「祖国復興のため」だとか「優遇する」とか言われても、戦争が終わったいま、あえて異国に残ろうとする将兵は多くはいません。そうなると残留工作は、宣伝や説得からだんだん威嚇に変わってきました。
  要求する日本軍兵力を残さないと、山西省にいる日本軍官民9万すべてを帰国させない――閻錫山はこう言っているのだ、と脅してきました。
  残留工作員たちは、「同胞を帰国させるためには、誰かが“後衛尖兵”の役割を果たさなければならない」という岩田流の残留理由で、悲壮な気持を煽りました。部隊内は大きく動揺しました。


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