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14 「山下少尉! おまえ残らんか」

――山下さんは少尉でいらっしゃったそうですが、部下を預かる地位にあって、複雑な立場に置かれたのではないですか?

 私が所属する第244大隊では、大隊長布川直平大尉が全員を集め、次のような訓示をしました。
 「軍が山西省から復員するためには、旅団命令に基づき部隊の三分の一の兵員を残さねばならない。残るのも、帰るのも国のためだ。入隊して日の浅い者は、まだ国のためにいくらもご奉公していない。国民の熱誠あふれる旗の波で送られたことを思い出し、進んで山西に残り、祖国復興のために働くべきである。戦争が続いていることを思えば2年ぐらいは短いものだ。」
 乱暴な話しでしょう? 大隊長の話しを聞いて引き上げてきた兵士たちは、口々に、「冗談じゃない、戦争は終ったんだ、絶対に残ったりしないぞ!」と、不満と反発をあらわにしました。
 しかし、残留工作の強引さは、下級将兵たちの要求を容易にするほど、なまやさしいものではありませんでした。
 すでに終戦から5ヶ月過ぎていましたが、軍はもちろん、一般居留民さえも帰国させるような気配がありません。いろいろな噂が飛び交いました。
 「閻錫山は日本人1万5000人を残さないと、あとの7万5000人も帰さないと言ってる」
 「祖国は荒廃していて、無事帰れても、食べるものもなければ、働く仕事もない」
 「日本には米軍が上陸している。男はみんな去勢され、女は米軍の御用に供される」
 不安と焦りが隊内にも広がっていきました。
 こうした雰囲気が蔓延しているときに、「特務団編成」の命令が発令されたのです。
 この命令で、各部隊は否応なく残留部隊の編成をしなければならなくなりました。

 私が所属する第3中隊も将校会議を開くことになりました。ある日山下堯哉中隊長が大隊本部から帰ってきて、中隊付きの3人の将校を集めました。軍命令で、日本軍の三分の一ほどを山西省に残すことになり、部隊にもその割り当てが来たというのです。

将校会議。手前が山下さん。(鹿地亘『不戦の誓い』中の挿し絵。小室寛・画)
 中隊長は深刻な顔で、一通りの説明をおわると、
 「俺んとこでも30人ほど残さにゃならん。どうするか。まず将校だが、俺は――まあ、残る。あと一人だが――」
 中隊長は3人の将校の顔を見比べていました。その目がいちばん若い私にきて止まりました。みんなの視線が私に集まりました。
 「どうだ、山下少尉! おまえ残らんか――」
 他の2人の先任将校は黙っています。「そうしてくれ」と言わんばかりの顔つきです。
 私は逃れられない重圧を感じました。しかし、先任将校らの卑怯な態度が腹に据えかねて、どうしてもその場で「はい」と答える気にはなれません。
 「考えさせてください」――これだけ言って自室に戻りました。
 その晩は一睡もしないで考えました。「残るべきか、帰るべきか――」何回も何回も自問自答しました。両親の顔がまぶたに浮かびました。
 だがしかし、もはや個人の願望を許しそうな事態ではありませんでした。
 翌朝、残留の「意志」を中隊長に報告しました。
 「そうか、ご苦労。残す下士官と兵の人選は、おまえに任せる」
 中隊長はただ一言そう言っただけで、下を向いたまま顔も上げません。「兵の人選」というもっともイヤな仕事を押し付けて、一時も早く厄介ごとから逃れたい気持ちが見え見えです。私はムッとして、敬礼もしないまま自室に戻りました。


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