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――9月に、岡村寧次総司令官の名で、中国に残留する日本軍は蒋介石の国民政府に投降するように、と指示が出たわけですが、日本軍の接収にあたった国民党とそれを不当とする共産党、そして日本軍と、この3者のあいだの関係はどのようになったのでしょうか? 日本軍を接収することになった国民党の軍隊は、戦争が終わったときずっと南の方に撤退していて、すぐに接収できるような状況にはありませんでした。 大戦末期のことに少し触れますと、日本軍は1944年の4月から翌45年1月にかけて、大規模な「大陸打通作戦」を実行しました。この作戦の目的は、当時米空軍のB29が中国の飛行場を飛び立って日本本土の爆撃に来ていたのですが、その中国の空軍基地を撃滅しようというものでした。 この「打通作戦」のために、日本軍は15個師団、兵員51万人を動員して中国の北から南に縦断する攻撃を仕掛けました。国府軍はこの戦争で抗日戦始まって以来の大敗北を喫しまして、河南から湖南、広西、広東、福建各省の大部分と貴州省の一部を失ってしまいました。 ですから、戦争が終わったとき、蒋介石・国民党の軍隊の大部分は、ずっと南の華南や貴州省・雲南省、それから西南奥地の四川省に後退していましたから、満洲や華北の日本軍占領地を接収するといっても、すぐにはやってこられなかったのです。 アメリカ軍が、その輸送に協力しはじめましたが、なにぶん何百万という大軍を、広大な地域で移動させるのですから、そう急速にできるはずがありません。 この移動の間にもあちこちで国民党軍と八路軍の衝突が起きていました。これに対して、全中国に国内戦争反対の人民運動が猛然と湧き起こってきました。各地で学生・市民による集会やデモが行われました。 こうした情勢を無視できなくなって、国民党代表張群、共産党代表周恩来が話し合いをもちます。その結果、10月10日の双十節に「双十協定」が結ばれ、平和のための政治的取り決めができたのです。これに基づいて、国共両党やその他の各党各派が代表を出して、民主連合政府を作るために話し合う「政治協商会議」を開くことになりました。 しかし、双十節から3日後の10月13日には、蒋介石は各戦区司令長官に共産党攻撃の密命を発しましたから、内戦は収まるどころかますます拡大していきました。 蒋介石を後押ししていたアメリカは、この形勢をみて、無理押しのできないことを悟ります。そこで45年12月、マーシャル国務長官を特使に仕立て、国民党と共産党のあいだを取り持つ調停者というかたちで乗り込んできました。こうして46年1月7日、張群、周恩来とマーシャルの3名で構成される「軍事三人委員会」が作られ、停戦問題が協議されます。そして3日後の1月10日、「停戦協定」が成立しました。 同じこの1月10日から、重慶で政治協商会議が開催される運びとなりました。この会議は1月31日まで続き、和平建国綱領、憲法草案等5つの決議が採択されました。 和平を模索する試みは続き、国共両党の軍隊の衝突を調停するために、国民党、共産党、アメリカからそれぞれ代表一人を出して「三人小委員会」が設けられます。国民党からは鄭介民中将、共産党からは葉剣英中将、アメリカはS・ロバートソン米代理大使が委員になりました。 そして、その下に同じ比例で構成される「三人小組」をいくつか作りました。紛争が起こった地点にこの三人小組を派遣し、実情を調査して問題を解決しようというわけです。 「三人小委員会」は山西省が“軍事衝突危険区域”であるとマークしていましたが、46年2月、戦闘が行われているとの通報を受け、「三人小組」を太原に派遣しました。 戦闘が行われていたのは、南溝・沁県をはじめとする東潞線の沿線一帯でした。この地域を警備していたのは、私の属していた塁兵団即ち元泉馨少将率いる独立歩兵第14旅団(独歩14旅団)です。元泉旅団長は第1軍の師団長・旅団長のなかでも残留派の急先鋒で、共産軍との戦闘には積極的に援軍を出して、閻錫山の軍隊に協力していました。 アメリカは、日本の軍隊が中国に残ることは非常に危険であると早くから警戒していました。トルーマン大統領自身も45年12月15日の「アメリカの対中国政策について」の声明のなかで、そのことを強調しているのです。 「日本の勢力が中国に残存する可能性を除去するために、アメリカは日本軍隊の武装解除と撤退とに関し明確な義務を負っている。アメリカ海兵部隊は、その目的のために華北に駐屯しているのである。 太平洋における平和の維持は、中国における日本の勢力が全面的に除去されなければ、危うくされるであろう。」 アメリカの強硬な抗議を受けて、国府軍総司令部は日本軍民全員の早期帰還命令を発しましたので、閻錫山はやむなく特務団を表面上解散させる命令を出さざるを得なくなったのです。 |
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