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山下正男氏 第9回:17.独立歩兵第14旅団(塁兵団)

17 独立歩兵第14旅団(塁兵団)

 特務団を表面上であれ解散せざるを得なくなったことは、閻錫山にとっても、残留を推進していた日本軍首脳部にとっても大きな打撃でした。その直接のきっかけとなったのは、元泉馨少将率いる塁兵団即ち独立歩兵第14旅団(独歩14旅団)の一連の動きでした。
 防衛省の防衛研究所図書館には、第1軍司令部が終戦直後から翌46年4月頃まで9ヶ月余りの間に受信・発信した電報・書信の綴りが残されています。どうしてこの時期のものだけ残ってしまったのか? 恐らく、それ以前のものは終戦とともに焼却されてしまったのでしょう。そして、終戦以後のものだけが、5月初めから始まった第1軍主力部隊の帰国の際に持ち帰られたものと考えられます。

元泉馨少将(楳本捨三『無国籍兵団――元泉茜庵の生涯』より転載。写真に「激戦のあと ?安盆地 亮平付近」の説明書きあり)
 この時期、司令部が各兵団から受信している電報・書信の中では、独歩14旅団からのものが最も多数を占めているのです。それだけこの時期この旅団が多事であったとも言えます。
 独歩14旅団は戦争中から山西省南部の都市潞安(ろあん)周辺の守備に就いていました。このあたりは、東に太行山脈、西に太岳山系を控える山岳地帯で、抗日戦争の時期に八路軍が強力な根拠地を築いていました。戦後共産軍はこの太岳・太行の陣地から北上して来たため、この地域は閻錫山軍(山西軍)と共産軍の衝突の最前線になったのでした。
 私たちの部隊がいた沁県や南溝が共産軍に包囲されたことは前にお話ししましたが(第10章11章)、「停戦協定」が結ばれた46年1月10日の頃も依然として包囲は続いていました。第1軍司令部の受信電報・発信電報から、その頃の独歩14旅団の動向を見てみましょう。
 「停戦協定」から3日後の1月13日をもって、中国全土で国民党と共産党は一切の軍事行動を停止します。この山西省の最前線でも戦闘が止み、一時の静けさが訪れます。しかし、共産軍の包囲により輸送はストップし、独歩14旅団は食糧・燃料欠乏の状態に追い込まれています。1月16日の電報は、
  「分水嶺(ぶんすいれい)地区保有糧秣約30日 同燃料ナシ
  南溝(なんこう)地区保有糧秣約25日 同燃料ナシ
  沁県(しんけん)地区保有糧秣約50日 同燃料ナシ
  石炭ハ目下楡次(ゆじ)ニ於テ受領積込中ナルモ輸送不可能ナリ」
 と司令部に訴えています。食糧もわずかしか残っていませんが、煮炊きする薪や石炭はまったく底を尽いてしまっていました。1月18日の電報は、停戦から5日にして早くも戦闘が始まったことを伝えています。
 「省防第2軍趙(ちょう)軍長以下本18日14時南団柏(なんだんはく)ニ当着 日本軍援助ノ下ニ周辺共産軍ノ掃蕩ヲ開始ス 目下北団柏(ほくだんはく)ニテ銃声盛ナリ」
 「省防軍」とは「山西省防衛軍」の略称で閻錫山軍のことですが、こうした戦闘と停戦の繰り返し状態のなかで、共産軍は絶えず日本軍に武器引渡しを求めて圧力をかけてきました。1月27日の電報はそれを伝えています。
 「共産軍ノ我ニ通告要旨左ノ如シ
 (1)山西軍ハ其ノ正規軍ニアラズ土匪ナリ
 (2)日本軍ハ降伏シタルニ拘(かかわ)ラズ依然トシテ終戦以前ト同様ナル兵器ヲ有シ兵力ヲ一地ニ集結セズ要点ニ配置シアルハ「ポツダム」宣言条約違反ナリ
 (3)自今物資兵器其ノ他ヲ共産軍ノ許可ナクシテ搬出或ハ連絡ヲ為ス場合ハ(各中隊トノ連絡ヲ含ム)当分速(すみや)カニ兵器ヲ共産軍ニ返納シテ転出スベシ」
 動くこともできず、食糧・燃料の補給もできない兵糧攻めのような状態がずっと続いていたのですが、この状態を脱したいのなら、共産軍に武器を引き渡しなさいという要求を突きつけられたわけです。これを見て旅団長の元泉馨は、屈辱に耐えられないといった調子で司令部に打電します。
 「我ニ攻争ヲ許可セラルルカ武器ヲ共産軍ニ渡スカ 二途ノ内一途ヲ選ブベキ状況切迫シアリ」
 元泉が「攻争」を選ぶべく司令部に迫っていることは明らかです。これに答えた司令部の電報は見つかりませんが、2月11日の電報では、既に戦闘を始めていることが見て取れます。
 「南団柏・子洪鎮(しこうちん)所在ノ日本軍主力ヲ兵団長直接指揮シ 山西軍主力ト共ニ本夕以降南進ヲ開始ス」
 2月18日の電報は、敵が兵力をどんどん増強しており、いよいよ決戦の時が近づいていることを報じています。
 「敵ハ逐次南方ヨリ兵力ヲ増強シツツアリテ――政治的解決不可能ニシテ決戦不可避ノ場合ニハ 我ハ現有兵力ヲ以テ決戦ヲ行ハントス」
 こうして、激しい戦闘が始まります。
 ところが、ちょうどこのとき「三人小組」が現地視察に向かいます。2月18日の司令部より独歩14旅団宛の電報は次のように伝えています。
 「貴地正面視察ノ為 小組ノ太原出発ハ20日ニ延期セラレタル由 第2戦区ヨリ連絡アリタリ」
 司令部の山岡たちも独歩14旅団の元泉も、この段階では「三人小組」の視察がまさかあのような重大事に至ることになろうとは思ってもいなかったようです。このとき、「三人小組」はまだ日本軍のところへは現れず、第2戦区即ち閻錫山軍のところで事情聴取をしていたものと思われます。


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