この頃、中国各地では日本兵の復員帰国が進んでいました。ところが、山西省では1月に始まった復員業務が急にストップしてしまったというので、不審に思った南京の支那派遣軍総司令部(総軍)から、復員業務担当の宮崎舜市中佐が3月9日太原に調査にきました。
――映画『蟻の兵隊』で、96歳の宮崎さんが病院のベッドに昏睡状態で横たわっているところへ、奥村和一さんが尋ねて行く場面がありましたね。奥村さんが、「宮崎参謀! 初年兵の奥村でございます」と大声で語りかけますと、ほかのことには殆んど反応を示されないという宮崎さんが、アーアー、ウーウーと唸っているように見えました。付き添っていたお嬢さんの増本敏子さんは、その時のことを「父は涙を流して大声で泣いたのです」と書かれていました。
宮崎さんもとうとうお亡くなりになられたそうですね。
この太原での聞き取り調査で残留の実態が明らかになり、宮崎中佐はアメリカ軍と南京の国府軍司令部に日本兵の帰国を要請し、それが山西からの第1次帰国につながりました。
実は、宮崎さん自身が30年あまり前に、このときの調査のことを語った記録が残っています(『偕行』1975年9月)。宮崎さんは、その後テレビでも話をされたことがありますが、山西の外にいて日本軍全体を監督する立場にいた人の証言ですので、『偕行』に掲載されたものを少し精しく紹介しましょう。
「(前略)私は、9月下旬以降、中国戦区内各地の終戦処理状況を飛行機で視察して廻ったのですが、山西における閻錫山の対日態度は極めて好意的であり、むしろ気味悪い予感がいたしました。
というのは、わが第1軍が優遇されるとともに、大同や潞安の確保のため増援を要求されている有様でした。私はこれは、閻は将来さらに日本軍を利用せんとするのではないかとの不安を感じたわけです。
一方、南京では11月以降、中国側の要請により、日本軍民の帰国輸送計画を作成し、これに基づき、21年1月上旬、米軍の中国戦区に対する帰国輸送配船が概定しました。
これにより、近く本格的帰国輸送が開始されることになったので、当方の要請により、何応欽(かおうきん)総司令から次の三基本訓令が、岡村総司令官および中国側各戦区長官受降主管に出されました。
総軍としましては、各方面軍・軍に対し、これらをさらに具体的に命令して実行を督励することになりました。
- 1月14日までに、日本軍全部隊の武装を解除すべき訓令(1月10日)
- 日本軍民の帰国輸送に関する訓令(1月11日)
- 日本軍民(技術者)の強制留用者の解除に関する訓令(1月20日)
山西の軍民8万5千余は、輸送力の貧弱な石太線を経て乗船地の塘沽(タンクー)へ出なければならなかったので、総軍としては太原から順調に連続発進することを強く期待していました。
然るに、1月下旬ごろ、太原からの輸送が開始されたので安心していましたところ、2月中旬に至り、突如として太原からの本格的な帰国輸送が杜絶しました。
そこで、総軍は北支那方面軍と第1軍に対し、太原からの輸送中絶の理由を質し、速やかにこれを再開するよう打電しましたが、不得要領な返電であり、さらに強く真相報告を求めましたところ、2月26日、第1軍から「当方、種種複雑ナル事情モアリ、御賢察ヲ乞ウ。ナオ為シウレバ主任参謀ヲ派遣サレタシ」との返電に接しました。
私は閻錫山との間に問題が起きているものと判断し、実情視察ならびに問題打開のため、山西に出張することを決意し、上司の認可を受けました。
当時南京では航空機を全部中国側に接収されていたので、中国側にも要請して、99式襲撃機1機を借用し、第13飛行師団参謀の前川国雄少佐に操縦を依頼して3月4日南京を出発、済南、北京を経て、9日太原に到着しました。
早速第1軍高級参謀の伊藤一朗中佐を宿舎に訪ね、山西の実情を始めて知りました。
すなわち、閻の要求に従い、第1軍は閻を支援するため、特務団(約15,000名の日本人武装部隊)の編成を、すでに発令しており、山西にある日本軍民は帰国派と残留派とに分かれ、血の雨も降らんとする状況にあることや、軍参謀の岩田清一少佐と、独立歩兵第14旅団長の元泉馨少将は、閻に躍らされている人物であることなどを承知しました。
3月10日、北支那方面軍参謀の笹井重夫大佐の来着を待ち、同日午後と翌11日午前の2回にわたり、澄田軍司令官の面前で軍参謀・各部長・それに太原にいる各兵団長らを交えての連絡会議を開き、その席上、私は失礼とは思いましたが、軍参謀長の山岡道武少将に対し、何応欽総司令の前記・三基本訓令に基づく総軍の命令に反し、第1軍が特務団編成を発令したことにつき、強く難詰しました。
次いで、山岡参謀長の反対を排し、その夕、笹井、前川両参謀が同行して、閻錫山をその官邸に訪問しました。
閻錫山は当初、何応欽総司令の訓令などは知らぬとトボけておりましたが、こんなこともあろうかと思い、南京から携行しました前記・三訓令の原本を提示して難詰しました。
そうすると、閻は心中の動揺、覆いがたい様子で、「そのような訓令が出ておれば、日本軍民を帰国させるのは自分の責任であるから任せてほしい」と云い出しました。
私は日本軍民の山西からの迅速な進出に関しては、閻長官を信頼しているので、ぜひとも善処されるよう要請して辞去しました。
3月12日には、太原南方の楡次に第114旅団長三浦三郎中将を訪問して、来原の趣旨を伝え、13日には、軍司令部でたまたま来原中の元泉少将と出会い、その無責任な放言に対し、激論を交えました。
また同日朝、宿舎へ岩田参謀を招致して強く叱責しましたが、ただ低頭しているだけで、一言の弁明もありませんでした。
同夜、山西産業社長の河本大作氏を訪問し、日本人の帰国問題について議論しましたが、同氏は「山西の重要な資源を活用して日本の復興に寄与するため、敢えて山西に残留して活躍する」との意見でした。私は山西滞在間、数多くの人々と意見を交換しましたが、山西残留に関して理念らしいものを述べたのは、ひとり河本氏だけでした。
3月14日早朝、前川機で太原を離れ、北京へ帰りましたが、後日閻錫山は「宮崎参謀の飛行機を押さえなかったのは失敗だった」と人々に語ったそうであります。
実は、太原の第1回訪問のときには、乗機が住民に囲まれていた体験があり、今度は閻麾下の部隊に、あるいは抑えられはせんかとの虞(おそ)れがありましたので、朝早く飛行場に行き、急ぎ離陸したのです。
北京では、根本方面軍司令官以下に、山西の実情を説明し、南京の総軍に対しては、状況報告を打電するとともに、元泉少将と岩田少佐を速やかに方面軍司令部付に発令するよう具申しました。(両名は予想どおり逸早く閻錫山の許へ入りこんでしまいました。)
3月14日には、一応太原からの帰還輸送が再開されましたが、閻には信を置けないので、北京滞在間、米軍の力を利用することにしました。
当時北京には軍事調処が設けられ、米・国・共の三者による停戦小組が、問題の地点に進出して解決にあたる仕組みになっており、また海兵1個師団も北京に進出しておりましたので、私は軍事調処の某大佐とジョーンズ海兵師団長に山西の実情を説明して協力を要請しましたが、彼らはこれにより強力に山西からの日本人の帰国問題を推進してくれるようになりました。
21日、南京に帰任後、総司令官以下に報告するとともに、何応欽総司令部にも説明しました。
総軍は、何応欽総司令部に対し、山西問題の解決を要請するとともに、第1軍に対し中国側との現地折衝を強力に推進し、特務団援助を直ちに中止するよう、強く要求する電報を発信しました。(後略)」
防衛省には、宮崎中佐が閻錫山を訪問した翌日3月12日、太原の第1軍司令部から南京の総軍参謀長に宛てて、山西の実情を報告した緊急電報が残っています。400字近い電文ですが、当時の宮崎中佐の認識・判断もこの回想のとおりであったことが分かります。
ところで、この回想のなかで宮崎中佐は、「元泉少将と岩田少佐を速やかに方面軍司令部付に発令するよう具申しました」と語っています。
宮崎氏は、残留の首謀者は軍の中では元泉少将と岩田少佐の2人であると判断し、この2人を北京に呼び付けて監視下に置こうとしたわけですが、これがどのように進展したか残されている電報でたどってみましょう。
南京の総軍及び北京の方面軍は、宮崎中佐の具申どおり、元泉と岩田を北京に呼んで監視下に置き山西から切り離そうとしました。ところが、危険を察知した岩田清一はいち早く閻錫山の元に隠れてしまいました。3月26日、司令部の山岡参謀長が、第2戦区軍(閻錫山軍)よりこういう電報が入ったのでお知らせする、として南京総軍・北平方面軍参謀長に宛て打電しています。
「第2戦区ヨリ 岩田清一少佐ハ既ニ留用シ 本長官部特殊砲兵教導官トシ 本戦区ノ砲兵教育指導ニ協力スルモノニ付 特別任務ニテ北平ニ赴クコト許可シ難(がた)ク――可然(しかるべく)承知相成度(あいなされたし)」
岩田清一は山西軍の砲兵部門の指導教官になってもらったので、北京行きは許可しないと閻錫山の側から言ってきているというわけです。また、元泉については、北京の方面軍より、3月20日に「元泉少将速カニ現地ヨリ離脱セシメテ禍根ナカラシメル」ように指示していますが、第1軍司令部は、次のように打電しています。
「(1)元泉少将ハ3月下旬ヨリ胆嚢炎(たんのうえん)ニテ南団柏ニ病臥中ナルガ 数日後ニハ当地ニ来ル筈(目下旅団ヨリハ将校以下数名ヲ付添ハシム)
(2)岩田少佐ハ既ニ報告セル如ク砲兵訓練教官ニ徴用セラレ 当地ニアリテ目下ノ所ヨク統制ニ服シテ行動シアリ
(3)両名共残留ノ決意愈々鞏(かた)ク 中国側モ熱望ス」(4月9日)
元泉が本当に胆嚢炎で臥せっていたのかどうか分かりませんが、第1軍司令部は北京からの出頭命令に対して、元泉・岩田を防衛しようとしていることは明白に読み取れます。
この電報を発信した山岡は、「2人とも残留する強い決意をしているし、先方も是非そうしてほしいと言っている」と書いているわけですが、北京の上部機関に対して、2人がこんなに熱心に残りたいと言っているのだから、残してやってもいいではないですか、というニュアンスに読めます。
一体、山岡という人は残留について自分自身でどういう考えをもっていたのか? 参謀長という実質的最高責任者の立場にありながら、その後ズルズルと元泉・岩田の強行路線を黙認していくわけです。そして、帰国後には国会で、「降伏先の閻錫山側から強力な残留の働きかけがあり、それに乗って飛び出して行った兵士がいた」と軍の関与を否定する証言をするのです。
ところで、このような山岡からの電報に対し、北京の方面軍は再度打電します。
「元泉、岩田ニ対シテハ残留不可能ナル所以ヲ理解セシメ 速カニ北京ニ赴任セシメラレタシ」(4月11日)
こうしたやりとりは、第1軍主力部隊が山西省を離れる5月まで続きました。第1軍が持ち帰った電報は5月3日が最後となっていますが、その最後の日の山岡の電報は総軍・方面軍に宛てて次のように打電しています。
「元泉少将ハ4月25日頃南団柏ニ於テ行方不明トナリ 第2戦区軍ニ捜索ヲ依頼シアルモ 其ノ後ノ状況判明セズ」
ついに、第1軍司令部は元泉を「行方不明」ということにして、上部機関の呼び出しから守ったのです。こうして、元泉も岩田も北京に送られることを免れました。そして、ほとぼりの冷めるのを待って、2人は残留部隊編成を積極的に推進し、その指導者になっていきます。もし、この2人が北京に呼び出されて、方面軍の監視下に置かれたならば、山西省のその後の事態もまったく違った進展になったであろうと思われます。