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19 残留部隊を隠す

――宮崎中佐の調査があり、三人小組の強硬な抗議がありましたから、山西残留計画はもはや崩壊したかのようですが、そうはならなかったのですね。

 確かに、これによって閻錫山も帰国列車を出さざるを得なくなりましたし、残留を強制されていた兵士の中から日本へ帰国することに変更する者がたくさん出てきました。
 しかし、閻錫山にとっては、その後の八路軍との戦いを考えると、日本軍全部が引き上げてしまうことは、自分の命を絶たれるに等しいことです。そこで、閻は秘書長である梁綖武(りょうえんぶ)に命じて、岩田清一と相談のうえ残留部隊を留める方法をこっそり画策させました。彼らは、三人小組は太原に長く留まれるはずがないので、この連中が太原の地を離れるまで部隊を見つからないところへ隠しておこう、ということにしたのです。
 そのために、第1から第6まであった特務団のうち、3つの団は移動を命ぜられました。三人小組に見つからないために、移動はいずれも夜間に行われました。
 第1団は、小田切正男が組織した小田切隊に正規部隊からの補充を加えて太原で編成された団です。この団は市の南門外にいましたが、東の郊外の陳家峪(ちんかよく)という山間部に隠れることになりました。
 楡次(ゆじ)城内にいた第3団は小田切隊から分かれた大庭浩一の雑兵部隊に第114師団からの残留者を加えて編成された団でしたが、汾河(ふんが)以西の彭村(ほうそん)という田舎の村に隠れました。この団は華北交通から来た家族持ちが4分の1を占め、夜間の移動は大変でした。
 太谷(たいこく)城内にいた私たちの第6団は、純粋に塁兵団だけから構成された団で家族持ちは一人もいませんでしたので、太原の南の営盤にある閻錫山軍の兵営に収容され、中国の軍隊であるかのように偽装しました。
 第2団は、同蒲線の忻県(きんけん)にいた独立混成第3旅団から編成され、今村方策大佐が指揮していましたが、ここまでは三人小組も調査に行かないということで、そのままでよいということになりました。
 第4団は、古屋敦雄の「鉄路公路修復工程総隊」が中核になって編成された団でしたが、彭村にいましたので、移動しなくてすみました。
 第5団は、第5独立警備隊の兵士に華北交通会社石門の警務団を加えて陽泉で編成された団でしたが、陽泉までは三人小組も行かないであろうということで、そのままでよいということになりました。
 こんなふうにして、特務団の6つの団はいずれも解散しないまま隠れおおせました。

 しかし、三人小組の調査がきっかけとなって、ともかく「解散命令」が出たことは事実です。この「命令」に接して、多くの兵士が残留を放棄し、帰国を要求しました。
 閻錫山も帰国列車を出さざるを得なくなりました。4月に入って、一般居留民もふくめ、復員軍人の相当数が山西を離れ、列車で天津に向います。第1軍の主力部隊も5月5日に太原を出発しました。これが第1回目の帰国です。
 1万人いた特務団は2600人にまで減少してしまいました。
 そして、閻錫山は、重慶の国民政府に対して、特務団は解散し、全部日本に帰国したと嘘の報告をしました。
 そうこうしているうちに、5月のアカシアの花が咲くころになって、三人小組は山西を去っていきました。山に隠れたりしていた日本軍も、大手をふって外を歩くようになりました。
 また、西北実業公司では、河本大作の「必ず前途を保証する」という誘いに乗って、各工場、企業から500人の日本人が残留を決めました。
 結局3500人の日本人が山西に残留することになったのです。
 残留した将兵の多くは閻錫山軍の教育・訓練要員に振り向けられ、来たるべき共産党・八路軍との決戦に備えることになりました。

八路軍との決戦に備えるトーチカ群
 それにしても、閻錫山や日本軍上層部は当初1万5000人の規模の人員を残そうと計画しながら、紆余曲折の末軍人2600人、民間人約900人という数に終り、彼らの目論見どおりにはなりませんでした。
 目論見どおりにならなかった要因はいろいろありますが、一つの大きな要因として、蒋介石・国民政府の一貫性のない施策に振り回されたという現実がありました。
 戦後の中国における日本軍は、山岡が電文に書き入れていたように、“俘虜”(捕虜)の状態にあったわけですから、すべてが国民政府の命令に服することになっていたのです。国民政府の命令は、「中国陸軍総司令陸軍一級上将 何応欽」から「中国戦区日本官兵善後連絡部長 岡村寧次大将」に「訓令」として発せられ、岡村を通じて各方面に伝達されました。
 岡村は、第5章のところで話しましたように、戦争中の支那派遣軍総司令官で、戦後は戦犯第1号に指定されました。しかし、いち早く国民党軍への全面協力を表明したため蒋介石の厚い信任を得、このように在留邦人の「善後」(後片付け)の総責任者になっていました。
 第1軍資料に残る国民政府の訓令の中から、日本軍及び在留邦人に対する政策を見てみましょう。
 中国陸軍総司令・何応欽は、1945年10月8日訓令を発し、岡村を通じて山西の日本軍に警告を出します(誠字第53号)。「報告によれば、降伏した日本軍の一部が我が方の軍隊に服務志願しているそうだが、直ちにそれを止めさせよ」という命令です。
 この命令は同時に閻錫山にも伝えられ、日本軍を傭兵として雇ってはいけないと警告しました。
 ところが、2ヵ月後の12月には、国民政府は「日籍人員暫行徴用通則」を公布し、日本人も技術者であれば留用を特別に許可するとしました。国民政府は、日本兵は帰国させると言い続けていましたが、ここで技術者の留用を認めたことによって、抜け道ができたのでした。いざとなれば、兵隊を技術者ということにしてしまえばいいのです。
 これで、日本人の残留を目論んでいた閻錫山には弾みがつき、翌46年1月には、閻は残留を促す「第2戦区特務団官兵待遇弁法」を公布し、大量人員の特務団編成を目指します。日本軍の側もこれに応えて大いに編成作業が進みました。
 しかし、「三人小組」が調査に来て日本軍の残留の実態を摘発します。国民政府はアメリカの強い要請から、4月8日、日本人は残留を希望する民間人も含めてすべて帰すという厳しい方針を打ち出しました(誠字第307号)。
 閻錫山も日本軍も国民政府の訓令に逆らうことはできません。このとき特務団の中からも多くの兵士が帰国し、残留者は急激に減りました。


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