――山西残留事件が裁判で争われてきたわけですが、映画『蟻の兵隊』が上映されて以後、インターネット上でもこの事件を取り上げ裁判にまで言及する記事が出るようになりました。法廷に提出した原告の「準備書面」もインターネット上で読むことができるのですが、そこでは、これまで伺ってきた特務団の編成から1946年5月、第1軍主力部隊の帰国までのところがキーポイントになっているように思われます。そこで、このあたりでちょっと裁判に絡む問題にも言及していただければと思います。
この裁判は、山西に残留させられた人たちが帰国後も国から何の補償も受けないままできたことに対し、「我々には軍人恩給を受給する資格がある」という訴えを起したものかと思います。形は「軍人恩給」を表に出していますが、原告側の主張には、当時の日本軍の実態を明らかにし多くの将兵を山西に残留させた責任の所在をはっきりさせようという狙いがあるように見えます。
裁判で争点になっているのは、私の理解するところでは、以下のようなことになるかと思います。原告側の訴えは、残留は軍命令であった、そして自分たちは日本軍に籍を置いたままで「特務団」に参加させられたのであり、日本へ帰国するまで軍籍があった、従って帰国するまでの国家補償を受ける権利を有する、また向こうで戦死した人たちには遺族補償がなされるべきである、といったことかと思います。
これに対して被告である国は、兵士は自願で残留して特務団に入ったのであり、軍が命令を出したという証拠がない、「特務団」に入った人たちは1946年3月に軍を除隊したことになっている、従ってそれ以後のことは個人の責任であり国家が補償するいわれはない、といったことでしょうか。
こうして争われた裁判で、最高裁は2005年9月30日、「原告らに第1軍の命令があったとは認められない」という、只一言の主文でもって、国の言い分を認める最終判決を下したわけです。
たいへん大雑把に整理すると、こういったところになるかと思われます。
裁判の具体的な経過といったことについては、ここでは触れないことにしまして、ポイントになる「軍命令」があったかどうか、「除隊(召集解除)」がいつどのようにして行われたかという点について、残されている資料からできるだけ客観的に経過をたどってみたいと思います。
残留がいかに組織的に行われたかということは、これまでお話ししてきたとおりです。
ところが、この計画を推進した軍の首脳たちは、日本軍残留がポツダム宣言に違反する行為であることを知っていましたから、後に証拠が残らないように、最初からいろいろ手の込んだ隠蔽工作をしました。
兵士自ら「残留を願い出る」という形式を取らせたり、閻錫山側と共同謀議する「合謀社」を作り、そこを通じて計画実行をさせ、軍が直接表に立たないようにしたり、あるいは又次々と組織の名称を変えていったりしていますから、この陰謀事件を明らかにするには、残された資料からその意味するところを読み取るような作業が必要になります。そのため、一般の人にはちょっと分かりづらい面がありますが、しばらく我慢してお付き合いをいただきたいと思います。
この問題はまた、国会で行われた参考人意見とも関係しますが、それは帰国後の話のところで触れたいと思います。
閻錫山の強い要請で、山西省政府の秘書長・梁綖武(りょうえんぶ)と日本軍の岩田清一・城野宏らが合謀社を立ち上げたことは、第9章でお話しました。合謀社ができた当初は、古屋敦雄・小田切正男・永富浩喜たちが「鉄路公路修復工程総隊」の看板を掛けて兵士や民間人に残留を呼び掛け、集まってきた者を片っ端から閻錫山軍の特別訓練隊(特訓隊)に送り込んでいました。
しかし、それでは閻錫山が望んでいるような1万5000人規模の軍隊組織を作ることはできません。やがて第1軍は、軍組織として兵士への働きかけを強化していきます。戦争に敗れたとはいえ、軍隊内において軍紀は厳正に保持され、命令指揮系統はそのままでした。部隊の将兵たちにとっては、上官から残留を勧められれば、それは上官の命令そのものでした。こうして、6つの特務団が編成されて行きました。
特務団の結成式が、1946年2月1日に太原で行われましたが、その翌日2月2日に第1軍参謀長(山岡道武)名で各兵団に発信された「鉄道修理工作部隊徴用ニ関スル細部指示」という電報があります(乙集参甲電第107号)。この中で各部隊に「鉄道修理工作部隊」の編成を命じています。
「徴用人員ノ配当次ノ如シ
第114師団 2500名
独立歩兵第14旅団 2500名
独立混成第3旅団 1500名
第4独立警備隊 1500名」
これを見ると、4つの兵団に対しそれぞれ2500名か1500名の人員を割り当て、合計8000名の編成を命じています。
特務団結成式の翌日にこれだけ大量の人員の編成を命じているのですから、これが特務団と関係ない筈がありません。
この編成計画は、閻錫山側と事前に相談して作ったものでした。山岡参謀長は、この命令を出した同じ日に南京の総軍、北平(北京)の方面軍に打電して、第2戦区司令長官(閻錫山)から3月末までの期限で鉄道修理工作部隊を出してほしいという要請を受けたといって、閻錫山からの中国文の徴用令を送っています(乙集参甲電第108号)。
しかし、この報告を受けた南京の総軍は、今ごろどうしてこのような大量の部隊が編成される必要があるのか不審に思ったのでしょう。2月6日次のような問い合わせの電報を発信しています。
「貴軍ニハ鉄道部隊ナシト承知シアルモ 徴用人員ハ一般兵団ヨリ差出サレタルモノナリヤ 或ハ臨時鉄道部隊トシテ差出シタルモノナリヤ 又徴用者ハ鉄道作業ニ従事スルヤ承リ度」
第1軍は、この問い合わせに対して、同日返電(乙集参甲電第126号)を出し、徴用令はすべての兵団へ来たものである、部隊はあくまで臨時に編成するものである、徴用者は鉄道修理作業に従事するものである、と答えています。
2月8日には、さらに独立歩兵第10旅団と第5独立警備隊に対しそれぞれ1500名の鉄道修理工作部隊の編成を命じています。こうして、全軍で計1万1000名の編成命令が出ました。
ところで、「特務団」が結成されたばかりなのに、どうして「鉄道修理工作部隊」というような名称を用いたのでしょうか? これは実は、国民政府の在留邦人に対する方針と関係しているのです。
国民政府は、45年12月に「日籍人員暫行徴用通則」を公布して、日本人でも技術者だけは在留を認めると公布しました。山西に日本人をできるだけ多く残したいと思っている閻錫山が、これを受けて「第2戦区特務団官兵待遇弁法」を公布して「特務団」の編成を日本軍に要請したことはお話ししたとおりです。
しかし、国民政府や南京・北京の日本軍に届け出る場合、「特務団」という名称は“軍編成”と看做される可能性が大いにあります。そこで、技術者の集団であるかのような「鉄道修理工作部隊」としたのでした。
これについて、残留首謀者の一人永富浩喜がその著書『白狼の爪跡――山西残留秘史』ではっきり書いています。「特務団として敗戦国の軍隊を残留させる事は国際法に抵触するので「鉄道及び公路を復旧補修する要員」という名目で残留させてはどうかと徐士珙(じょしこう。閻錫山の娘婿)に話したところ、閻錫山の許可がおり、直ちに採用された。」
永富のこの話は、軍が組織として関わる前の「鉄路公路修復工程総隊」のことですが、この手法が特務団を編成した際にも用いられたのです。