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山下正男氏 第12回:21.残留をめぐる裁判の争点(下)

21 残留をめぐる裁判の争点(下)

 ところで、もう一つの争点となっているのは、残留した兵士がいつ・どのようにして除隊(召集解除)になったかという問題です。この除隊の実態は、第1軍の残された文書で見るかぎり、そうとう混乱を極めた形跡があります。
 合謀社で最初に話し合われた趙瑞(ちょうずい)と岩田・城野の会談では、兵士を特務団に入れるに当たっては「現地除隊」の形で召集解除させるとしていますが、現地除隊のことは誰一人として本人に告知されていないのです。私たちは日本軍に籍をおいたままで閻錫山の軍隊に加わったとずっと思っていました。日本に帰国して初めて、1946年3月で自分が除隊になっているということを知ったのです。これは仲間のすべてがそうです。

 前回の話の続きとして申しますと、「鉄道修理工作部隊」の徴用は、閻錫山からの要請としては3月末までの期限をきった臨時のものということでした。山岡参謀長は、至誠兵団からの質問に答えたなかで、「鉄道修理工作隊ノ編成人員ハ召集解除ノ形式ヲ採ルコトナシ」と通達しています(46年2月5日「乙集参甲電第122号」)。
 つまり、「鉄道修理工作部隊」に入隊した兵士は除隊の手続きをとる必要はない、日本軍の軍籍のままでかまわない、と言っているのです。
 ところが、それからちょうど1月後の3月4日には、先の通達を変更したかのような次のような命令を出しているのです。
 「鉄道総隊留用受諾者ニシテ既ニ申請済ノモノハ除隊(召集解除)ヲ認可セラレタルニ付 各兵団部隊ノ実情ニ応ジ適宜実施相成度(あいなされたし)」
 先の通達と矛盾したことを言っているようですが、この間の変更はどう理解すべきでしょうか? わかりやすく整理してみると、以下のようなことになるかと思います。
 「鉄道修理工作部隊」編成の本当の目的は、鉄道を修理するための要員を集めることではなく、残留を受諾した兵士を確保しておくことでした。ですから、塁兵団のような実際に鉄道の修理が必要なところを除いて、ほとんどの兵団ではこれまでどおりの状態でいたわけです。いわば、待機している期間ですから、まだ除隊の手続きをとる必要はなかったのです。
 そもそも、鉄道修理工作部隊の「3月一杯」という期限は、あくまでも国民政府や南京・北京の日本軍に向け、短期の徴用であると思わせるために設定されたもので、本当のところは閻錫山と第1軍との間の取り決めにあった「2年間の徴用」がお互いの了解事項であったのです。
 ところで、「鉄道修理工作部隊」の編成命令を出してから1月もしない間に、閻錫山からの具体的な任務の要請が次々ときはじめました。そのために将兵を送り込む事態になってくると、召集解除の問題が現実の日程に上ってきたのでした。
 3月4日の命令電報の背景には、こうした事情があったものと思われます。
 軍首脳部において、この除隊(召集解除)の問題が、2月末から3月初めの間のどこかで話し合われたものと思われます。3月4日の命令電報よりも早い3月2日に、将兵団(第114師団)では隷下の各部隊にすでに次のような命令を発しています。
 「鉄道大隊及ビ地方側就職決定者ハ3月1日ヲ以テ現地除隊(召集解除)スベシ 但シ師団司令部逃亡者1 独立歩兵第384大隊逃亡者3ヲ除ク」
 「地方側就職決定者」というのは、第2戦区(閻錫山軍)の各機関に就職が決まった者ということですが、要するに特務団に入って閻錫山の軍に出かけていく将兵のことです。
 一方で、この電文でも触れられているように、終戦後の混乱した事態のなかで、部隊長の許可なしに勝手に部隊を離れる者があちこちで出始めていました。軍はこうした輩を「逃亡者」扱いにする一方、軍命令で鉄道大隊や特務団に入って残留する者は彼らと区別して正式除隊(召集解除)扱いにしようとしたのでした。
 しかし、そうした除隊手続きが、各兵団、各部隊で実際にどれだけ行われたのか分かりません。

 この命令が出てから1月後に事態は急変しました。「三人小組」が日本軍残留部隊の編成を摘発し、国民政府は4月8日に「訓令」を公布して、日本人は残留を希望する民間人も含めてすべて帰すという厳しい方針を打ち出しました。技術者であれ残留は許されないことになったのです。(「誠字訓令第307号」)
 この訓令が出てから1週間後、山岡参謀長が4月15日に各兵団に向けて発信した「351号外」なる命令電報の起案が残っていますが、それには次のように書かれています。
 「誠字307号ニヨリ日本軍民ノ中国残留ハ許可セラレザルコトトナレリ
 就キテハ本命ニ従ハズシテ今後山西側ニ脱走セル者ニ対シテハ日次ヲ遡り3月16日以降3月25日迄間ニ於ケル除隊者トシテ処置セラレタシ(但現役将校ノ転役ハ認メラレズ)
 但シ今迄ノ間ニ於テ逃亡シ特務団等ニ入リタル者ニ対シテハ 逃亡者トシテノ手続ヲ採ルモノトシ 其ノ官等氏名ヲ改メテ速カニ報告セラレ度 依命」
 「本命ニ従ハズシテ」以下は、軍としては日本帰還の方針を打ち出したが、それにもかかわらず今後(4月16日以降)軍を離脱して残留する者が出てくるとしたら、日次を1月遡って3月16日から26日の間に除隊した者として処理せよ、と言っています。
 なぜ、このような日付をごまかす帳簿を作成する必要があったのでしょうか? それはこのように考えられるかと思います。
 4月8日の国民政府の「誠字第307号」の訓令が出た以上、軍はすべての軍人・軍属を連れて日本に引き上げる責任が生じてきました。もし、それを無視して勝手に軍を離脱し残留する者が出てきたら、軍は彼らを制止できなかったということになります。これは軍の威信に関わることであり、後日軍の責任を追及されることにもなりかねません。
 そこで、第1軍としては、軍籍を離れた将兵はすべて国民政府の訓令が出る以前のものであり、訓令以後にはこのような将兵は一人もいないということにしようとしたものと考えられます。日次を遡るというのは、軍組織に責任が及ばないようにというところから発想されたものでしょう。

「351号外」の後半部分
 しかし、もっと問題なのは、「但シ」以下に言う特務団に入団して残留することになっている兵士の処置です。今後はこれらの兵士を「逃亡者」扱いにすると言っているのです。「逃亡者」というのは、戦中であれば軍法会議にかけられる重い犯罪です。
 この号外は、第1軍が山西残留者を犯罪者扱いにした決定的証拠ともいえる電報かと思います。残留者を軍と切り離し、軍命令に背いた者とすることによって、軍が責任を問われることを免れようとしたものです。山西残留者は、この段階で軍に切り捨てられたと言っても過言ではありません。
 そして、先ほどの日次を遡ったと同じ理由で、国民政府の訓令が出る以前の3月に除隊したということで一律に整理されてしまったのです。
 この「351号外」の末尾には「本電直チニ焼却ノコト」、さらに念を押すかのように「本電用済後焼却」と書いて傍線で消していますが、よくこのようなものが残ったものだと思います。


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