前のページ | インタビューリストTOP | 第14回へ
――日本軍のなかの組織はこの頃どうなっていたのですか? 「三人小組」が去った後、組織の再建が急務でしたから、46年7月には、城野宏と第7特務団を率いていた今村方策大佐とが謀って、「特務団」を「(山西省)保安総隊」に改編します。そして、閻錫山を司令に押し立てて、岩田清一を高級参謀にし、実権を岩田が握る形にしました。 残留日本軍のなかにも、絶えず指導権をめぐる内紛があり、そのたびに組織の編成替えがおこなわれ、何度も名称が替わりました。 「保安総隊」も10月には「(山西)野戦軍」と改称します。この野戦軍の副司令には元泉馨が就任しました。「野戦軍」は閻錫山軍の護衛隊として、背後にあって閻軍の戦争を指揮監督しました。 こうしたなか、47年5月の陽泉の戦役で、閻錫山の第5大隊は全部が捕虜になるような敗北を喫しますが、副司令として指揮をとっていた元泉馨は、岩田の救援行動が敏速を欠いたとして、岩田と対立し副司令を辞めてしまいました。 これでは組織が機能しないと言うので、総指揮者として浮上してきたのが、先ほどの今村方策大佐でした。彼は太平洋戦争中、南方戦線で総指揮をとった今村均大将の弟です。 今村大佐は忻県にあって特務団の第2団を率いていましたが、彼を太原に呼んで「暫編独立第十総隊」を組織させることになりました。第2団も今村とともに忻県から太原に移ったので、総隊全体が太原の周辺に集結することになりました。 今村方策によって、「野戦軍」は新たに「暫編独立第十総隊」という中央軍編成に改められます。つまり、閻錫山軍の正規部隊の一つになったわけです。司令に今村方策、副司令に岩田清一、政治部長に城野宏、参謀長に相楽圭二が就きました。 また、「総隊部服務規程」には「総隊長訓の実践」「上級者に対する服従」などが説かれているほか、紀元節や天長節などの祝祭日一覧表が付いています。 これらの文書でも明らかなように、残留部隊は明確な目的と指揮系統を保った旧日本軍そのもので、単なる傭兵の集団ではありませんでした。 47年9月になると、残留の約束期限の2ヶ年が過ぎて、帰国する者が出始めました。閻錫山も、期限が満ちて帰国を希望する者は必ず帰すと約束した以上、その措置をとらざるをえません。 こうしたなかで、日本から義勇軍を呼び寄せようではないかという計画が再燃してきました。この計画は、実はこのときが初めてではなく、前にも提起されたことがありました。 46年末、城野宏は合謀社以来の部下五城邦一を青島経由で日本に帰らせ、日本義勇軍派遣の交渉に当たらせました。しかし、日本に帰って以後連絡はないままうやむやに終りました。 47年9月には、城野は総務課長の小川光永を帰国させ、日本国内に山西残留支援の「国民運動」を巻き起こそうとしました。城野は小川に、帰国したら先ず彼の師である東大総長の南原繁と朝日新聞の論説委員・佐々弘雄に会うよう指示しました。時の政府は社会党の片山哲内閣で、小川は片山総理にも面接して山西の実情を訴えましたが、政府も国民も反軍国主義の勢いが強く、不発に終ってしまいました。 今回もまた城野宏が指揮をとり、10万の義勇軍を呼び寄せるために「緊急事態対策」を書きました。先ず日本と実際の連絡をとり、具体的交渉の道を開くことが先決であるとして、上海に人を派遣することにしました。特務団第3団の団長をしていた永富浩喜が自ら進んでこの任を引き受けました。 日本からの義勇軍呼び寄せの要求は、日本軍の中だけではなく、閻錫山の側からも出ていました。 48年春、閻錫山の軍事顧問をしていた三浦三郎中将ら12人の戦犯が無罪となり、帰国することになりました。日本軍の戦犯の指定および処理は、本来中国陸軍総司令何応欽の所管のもとにありましたが、内戦の拡大にともない、それが各野戦区司令官に一任されました。したがって、山西省にいる戦犯の処遇は、第2戦区司令官である閻錫山の思うままになり、彼は48年3月、三浦らの戦犯指定を解除します。 閻錫山は彼らの帰国を条件に、日本軍人の優秀な指揮官の招請をたのみました。三浦三郎が、帰国に当たってそれに応えるかたちで「一般情勢判断」を提出します。 「このままでは中共が全中国を征服してしまうが、それは世界体制を変化させるに足る危機である。この際全世界の反共勢力は手を結び、統一指揮機構を設けて、中共の発展を阻止しなければならない。 第一に、米軍と蒋政権が共同して日本義勇軍30万を華北に入れ共同作戦をすること、 第二に、国際政治局を設置して、統一指揮を実現すること。」 これは、城野が三浦に代わって書いたものですが、三浦は、帰国したらこの計画の実現のために活動すると約束しました。 山岡道武もついに帰国することになりました。山岡は、「義勇軍の問題は、どうしてもマッカーサーを動かさないと、中国側や日本の連中ではどうにもならないようだ。おれが帰ったらその線で働いてみる」と言いました。 共産党側の勝利がみえはじめた今、東アジアの情勢は45年12月のトルーマン声明(第16章「三人小組」参照)のときとは状況ちがってきていました。アメリカは、東アジア政策の変更を余儀なくされ、日本を反共・冷戦の重要拠点として位置づけはじめていました。山岡はこうした情勢をいち早く察知し、GHQの同意が得られると踏んだようです。 山岡はまた、「この問題については、閻錫山と秘密に連絡協議する必要があるので、通信暗号を制定してほしい」と城野に頼みました。 城野は一方式で二つの暗号を定め、一つは山岡と交信し、もう一つは山岡の指示に基づいて閻錫山の高級参謀張文炤(ちょうぶんしょう)と交信することにしました。 そして、義勇軍の中国上陸後の輸送、給養等一切のことは張文炤の側が面倒をみることに取り決めました。 山岡は、「日本でしばらく動いたら、また太原に帰って来る。それまでなんとしても山西を確保しろ」と言って、飛行機で日本に帰って行きました。 しかし、当時第一線で解放軍と戦闘を交えていた日本軍将兵には、三浦中将、山岡参謀長ら高級将官の太原脱出は知らされていませんでした。 |
お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ Copyright (C) 2007 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved. |