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25 帰国の夢断たれる

――もうここまできては、組織の統制が取れなくなっていたのではないですか。

 確かに、約束の残留期間はとっくに過ぎ、戦死者も続出したため、隊員たちの不満は爆発し、上官に対する刃傷沙汰や暴行事件が頻発しました。
 これを鎮静化させるために、閻錫山はかなりの数の日本人を帰国させざるをえなくなりました。
 1948年9月15日、1833人が32個小隊に編成されて、南大営盤飛行場よりTX民間航空機に分乗し、帰国するため北京に向かいました。幸い、第3中隊から残留させた多くの兵士を、このときに帰すことができました。
 私も、このときを逃しては帰るチャンスはないと思い、身の周りの品を行李にまとめ、岩田には無断で、南大営盤飛行場へ人力車を走らせました。
 しかし、エンジン音が唸っている飛行場の手前1キロのところで、後からやって来たサイドカーに止められてしまいました。岩田が追跡させたものでした。
 「これは命令です。ただちに司令部に戻ってください。」
 司令部に帰ると、岩田は私に言いました。
 「勝手な行動をとるな。まだやることがある。近日中に旧満州国軍の青年将校たちが北京から太原に来る。彼らを中心に砲兵訓練所を作る。
 お前には教官として実兵訓練を担当してもらう。戦況が最悪の事態になったら、飛行機で台湾に脱出する。俺と最後まで行動を共にせよ。」
 もうこうなっては、毒を食らわば皿までとやけくその気持ちになりました。

――十総隊の幹部はほとんどいなくなったようですが、組織はまだ持ちこたえるのですか?

 残留日本軍は、先の戦いで第2団の団長相楽圭二が逃げ帰った以外、そのほかの団長たちはすべて戦死か捕虜になってしまいました。組織としては壊滅的な打撃です。
 それでも、今村たちは組織の立て直しを計ろうとして、元の第1団と第3団を合併して歩兵第1団とし、第2団と第6団を合併して歩兵第2団とし、第4団と小羽根隊を合併して砲兵団としました。
 今村は局面挽回の希望を依然義勇軍の募集にかけていました。そこで、城野と謀って部下の矢田茂を帰国させ、人数の多少に関わらずすぐ太原に連れてくるよう命じました。
 一方河本大作は、閻錫山の委託で、大砲を生産する技術要員を日本から呼ぶ計画を立てますが、それには日本留学経験のある閻の娘婿・徐士珙(じょしこう)を日本にやって実行しようとしました。徐は山西に残留してその後帰国した旧軍人の間を奔走し、太田黒参謀ら20余人と約束を取り交わしたと日本から打電してきました。
 しかし、日本からの技術人員はすぐに来る気配はありませんので、河本は日本軍の94式山砲をまねたものを西北実業公司の兵器工場で生産し、山西軍に備えさせます。
 第1軍司令官であった澄田賚四郎は、戦犯ということで表に出ませんでしたが、山岡が日本に帰ってからは、正式に閻錫山の最高軍事顧問に就いていました。

 蒋介石も、太原が危ないというので、中央軍第30軍の2個師団とその直系の第86旅団を空輸で送り込みました。
 第30軍の軍長黄樵松(こうしょうしょう)はもともと馮玉祥(ふうぎょくしょう)の部下でした。馮玉祥は北洋軍閥の総帥で、大戦中は国民党の司令長官として積極的な抗日論者でしたが、戦後はアメリカに渡り、しだいに反蒋介石の色彩を強め、内戦が激化するといっそう共産党と手を握る方向に行きました。ところが、48年にアメリカを引き払って帰国する途中、国民党の特務機関によって殺されてしまいました。
 黄樵松は馮玉祥の影響をうけていたので、抗日には消極的で共産党潰しには熱心な蒋介石にもともと不満を抱いていました。
 今回のことについても、意味のない内戦で縁もゆかりもない閻錫山などと心中するのは馬鹿げていると考えていました。彼は密かに解放軍と連絡をとり、“起義”(閻錫山軍に反旗を翻し解放軍に就くこと)を計画します。計画は、太原の東山方面に配置された黄の第30軍が突然反旗を翻し、城門を奪取すると、それを機に解放軍が総攻撃を開始して、一挙に太原を陥落させようというものでした。
 黄はこの計画を実行に移すため、長年事を共にしてきた師長の戴炳南(たいへいなん)に相談しました。戴はこれにまったく賛成であると言って、実行の打ち合わせを終えると、その足で閻錫山のところに駆け込んで、すべてを話してしまいました。閻は仰天して、直ちに参謀長らと相談して緊急会議を開き、そこへ黄を呼び出します。黄はそこで取調べを受け逮捕されてしまいました。
 閻は太原で処置しないで、黄を南京の蒋介石の許に送りました。南京に着くと、黄はすぐ軍法会議にかけられ、「党に叛き国に叛き、私(ひそ)かに奸匪に通じた」罪で死刑判決を受け、両花台で銃殺されてしまいました。
 戴はその功によって、第30軍の軍長になりましたが、太原陥落後、普通の市民に変装して脱出しようとしたのを捕えられ、首義門で銃殺されました。


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