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27 総攻撃の前の静寂

 1948年の末、解放軍の総攻撃を前にして太原周辺は静まりかえっていました。
 このころ、シカゴの『ヘラルド・トリビューン』の記者シモンズら2名が、太原の日本軍を取材に訪れました。
 彼らは、総司令今村方策の案内で第一線陣地を見学し、夜今村の家で城野宏をふくめて歓談しました。
 シモンズ「なぜ山西に残ったのか」
 今村「中国を共産党が支配するのを一日防げば、一日だけ日本に有利だと思ったからだ」
 シモンズ「閻錫山をどう思うか」
 今村「もっとも日本人を理解してくれる中国人だ。だから、我々も全力をもって協力する」
 シモンズ「アメリカに期待するものはあるか」
 城野「アメリカはもはや決心するのが遅すぎた。3年前、我々が日本に連絡して山西を援助させようとした頃、アメリカが日本と共に本格的に中国問題の解決に乗り出していたら、まだ見込みがあった。しかし、事ここに至っては、もう策がない。援助しても一月か二月落城を延ばすくらいのことだ。それだけのための援助をするつもりがあれば、通信機材と飛行機くらい送ってくれるなら、少々役に立つだろう」
 この取材記事は『ライフ』に大きく写真入りで出ました。

 国民党と共産党のあいだで繰り広げられた内戦は、もう誰の目にも明らかなほどはっきりと結着がついてきていました。
 蒋介石は49年元旦の放送で、国民党軍の維持を条件に共産党に対して和平を呼び掛けますが、共産党からは厳しい8項目の条件がついた返答が返ってきます。
 蒋介石はまた1月8日には、米英仏ソ4ヶ国に国共間の和平調停を依頼します。しかし、12日にアメリカが拒否、17日には英仏ソも相次いで拒否します。アメリカは国民党軍の腐敗にすっかり愛想をつかして匙を投げており、この後蒋介石への援助を打ち切りました。
 アメリカは、前年の暮からさまざまな方法を使って蒋介石に身を引くよう促していましたが、ここに至って蒋介石も抗しきれず、1月21日「引退声明」を発表して総統の座を降り、代わって李宗仁が代理総統に就任します。
 こうした中、1月15日解放軍は天津を下し、17日には塘沽も支配下に収めました。北京を守備していた国民党側の将軍傅作義(ふさくぎ)は、追い詰められて閻錫山に相談します。閻錫山は、北京の帰趨は山西省の運命も決めるとみていましたので、傅作義に「軍隊を把握してさえいれば最後まで戦えるのです。戦い続けていよいよどうにもならなくなったら、そのときは太原に逃げてこられる手筈を整えましょう」と最後まで戦いを継続するよう打電しました。
 しかし、傅作義はさんざん煩悶した末、共産党の提供した「共産党政権樹立後の閣僚参加」を条件に和平提案に同意します。そして、1月30日解放軍は北京への無血入城を果たします。

北京に無血入城する解放軍
 北京が戦闘もなく解放軍の手に落ちたことは、閻錫山の高級幹部たちに大きな動揺を引き起こしました。
 太原と石家荘を結ぶ石太線も解放軍によって抑えられ、太原から北京への道は絶たれてしまいました。太原はいよいよ華北地区の孤島と化しました。
 城内は、略奪や窃盗、無銭飲食、強姦等が横行し、悲惨な状況になってきました。
 食糧は完全に底をつき、街にある柳の木の皮もみんな食べ尽されてむき出しになっていました。残留した日本軍兵士たちも、寄ると食べ物の話で、犬はうまいが猫はまずいといったようなことばかり話していました。
 悪性インフレで、紙幣は紙くず同様になっています。国民政府は幣制改革と称して新たに金元券を発行しますが、すぐに暴落します。今日の金は翌日には何分の一かになってしまっています。
 市民は男女を問わず陣地修復に駆り出され、シャベルをふるって壕掘りをさせられ、若者はみな片っ端から兵隊に徴発です。

 49年2月10日、元第1軍司令官澄田賚四郎が太原を去りました。それに先立つ1月末日、澄田は閻錫山の邸宅に招かれ、秘かに会談がもたれましたが、その席上閻錫山から次のような発言がありました。
 「わが国の軍事力では、八路軍を抑えることは難しい情勢になった。現状を挽回するためには、アメリカ軍と日本の力を借りなければならない。現在アメリカ軍が飛行機で支援してくれているが、あまり効果があがっていない。南京で岡村大将と何応欽将軍とが、日本軍の再上陸について話し合ったと聞いている。
 貴殿の部下が我が山西軍によく協力してくれたことには、私はたいへん感謝している。日本の特務団は実に立派だ、さすがに日本軍である。しかし、現状では限界と思う。
 貴殿は一刻も早く日本へ帰って、強力な米日共同軍を中国へ派遣していただきたい。貴殿に協力してもらいたいのは、これからである。貴殿の戦犯は解除する。飛行機は我が方で準備する。」
 澄田はGHQからA級戦犯に指定されていましたが、東京裁判が終了した今、日本に帰国しても裁かれる心配はなくなりました。逆に中国に留まって、人民解放軍に捕まれば、日中戦争と戦後の山西残留の二重戦犯で重刑に処せられることは間違いありません。閻錫山のこの唐突な申し出に、澄田は驚きと喜びが交錯し、一瞬返す言葉を失ったが、やがて次のように返答したと後年述懐しています。
 「私が戦犯の身でありながら、たいへんな厚遇を受け、また私が日本へ帰れるように、暖かい配慮を下されたことに、心からお礼申し上げます。日本に帰ったら閣下の要請に添って、できうる限り努力いたします。閣下は健康に十分注意してください。」
 閻錫山は河本大作にも帰国をすすめました。しかし河本は「自分が先に立って皆を残し、いまさら命が危ないからと、一同をすてて帰国することなどできぬ。最後まで皆と行動をともにする」と言って断りました。
 澄田司令官は、太原脱出の直前、激戦つづく黄家墳(こうかふん)の防御陣地に来て、疲労困憊している日本人将兵に向かって一席ぶちました。
 「太原防衛は諸士の双肩にかかっている。私は日本に帰り、2万の義勇兵を連れて救援に戻る。それまで頑張ってくれ。諸士の努力を決して無にはしない。」
 彼は閻錫山から多額の金に、純金のコップ、匙を贈られ、49年2月10日、閻の用意した飛行機で、青島を経て上海に出ます。そして、2月17日、アメリカの豪華客船プレジデント・クーリッジ号に乗って日本へ向かいました。

飛行機で太原を脱出する閻錫山(右)。見送る従姉妹の閻慧卿と梁化之(上田武夫『日中友好への提言』より転載)
 3月28日、閻錫山は蒋介石に替わって代理総統に就任した李宗仁と和平問題を話し合うといって、飛行機で南京に飛びました。実は、太原の陥落が避けられないと悟った閻錫山は、南京の国民党事務所所長の方聞(ほうぶん)に、李宗仁代理総統から自分を南京に呼び出す電報を打ってほしいと頼んでいました。李宗仁は閻錫山に「和平使節が3月31日に北京に向かう。ついては、和平会談に先立って貴台とじっくり和平会談の大局について話し合いたいので、至急南京までお越しいただきたい」と打電しました。閻錫山は直ちに幹部会を召集し、梁化之ら幹部たちにその電報を見せて、「和平会談は4,5日で終るかもしれないし、あるいは10日近くかかるかもしれない。その会談の結果を待って、私は再び太原に帰って来る」と言い残して出かけて行きました。
 しかし、南京から再び太原に帰って来ることはありませんでした。


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