![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ――山西残留事件の首謀者だった人たちはその後どうなりましたか。 第1軍の総司令澄田賚四郎と参謀長山岡道武は、それぞれ49年と48年に帰国しましたが、その後蒋介石の要請に従って日本から台湾へ義勇軍の派遣を画策したことはこれまでにお話しました。 河本大作と城野宏、岩田清一の3名は、1950年の春一緒に太原から北京の収容所へ移されました。岩田はそこで結核を再発させ、北京へいって2ヶ月して亡くなりました。岩田が生きていれば、この事件全体の真相をもっともよく知っていた男ですから、そういう点でも残念です。 1955年、河本と城野は再び太原の収容所に送られましたが、翌56年河本は老衰のため亡くなりました。日本の遺族には、遺骨とともに河本が生前愛用していた赤革のジャンパー(「12 在留邦人の留用」の写真参照)と若干の遺品が送られてきました。 城野は、56年6月太原特別軍事法廷で禁固18年の判決を受け、撫順監獄に送られました。彼の隣の監房には満洲国皇帝溥儀が収容されていました。 城野は、1964年3月に釈放され、4月7日日本に帰国しました。帰国すると彼は持ち前の文筆の才を発揮して、山西残留についての回想記『山西独立戦記』や経営に関する本を多数出版しましたが、1985年に亡くなりました。 ――国会で山西残留事件が問題になり、山下さんや澄田賚四郎、山岡道武といった人たちが証言されたのですが、最後に国会証言について紹介していただければと思います。 私が参考人に呼ばれたのは、帰国直後のことですが、澄田や山岡たちが参考人として呼ばれたのは、それから2年後の1956年のことでした。 私は、帰国して10日後の1954年10月7日、衆議院の「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」に参考人の一人として召喚されました。山西省に残留した元軍人が2人呼ばれましたが、将校としては私、もう一人は兵士でした。この委員会で、帰還に至るまでの概要並びに現地における同胞の状況等について報告を求められました(注)。 (注)この議事録は、インターネットで「衆議院会議録情報 第019回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号」として見ることができる。 私は、「山西残留は軍の命令によるものであった」ことを強く主張しました。 「私たちは、閻錫山軍の教育訓練並びに作戦に従事することを強いられました。しかし、戦争が終わった当時にありまして、下士官および兵の皆さんは、国に帰りたいという気持ちを強く持っていましたから、残留をさせることは非常に困難がともないました。 そのために、いろいろの手段や方法が講じられました。私は、当時大隊の編成事務を担当していましたが、各大隊に対しては、一定数の人員を残すということが割り当てられました。そして、第何中隊は将校が何名ぐらい、下士官が何名ぐらい、兵がどれほど、というように割当をしました。 当時、すべての命令、指示は軍から出ておりました。それ以外の命令や指示はありませんでした。」 私のこの発言によって、焦点は、日本軍の中国山西残留は軍の命令により強制されたことか、それとも自由意志(自願)によるものか、ということになりました。 委員の1人自民党木村文男代議士は、「これは復員であるか、残留邦人の引揚げであるかの岐路になる大問題である。無条件降伏は陛下の詔勅によるもので、誰もが侵すことのできないことは、将校であったあなたは十分わかっていたと思う。それでも軍の命令であると強調し、言い切ることができるのか」と、私に詰問してきました。 「命令だというなら、なぜ天皇の命令に従わなかったのか?」と言いたいのでしょうか。 「何をいうか!」と思いましたね。そんなことは私たちに問うことではない。それは、私たちを残留させた澄田軍司令官や山岡参謀長らに問い詰めることではないか。「上官の命令は朕(天皇)が命令と思え」と叩き込まれた下級将兵が、直属上官の命令に逆らえなかったことぐらい、かつて軍籍があったという木村代議士ならよくわかっているはずではないですか。 厚生省・日本政府は、なんとかして、残留は命令によるものではなく、「自願」であることにしようという意図は明々白々でした。そして、事件首謀者たちの策略であった、「各兵士は現地除隊の手続き(軍籍抹消)をとった」という主張に組みしました。 しかし、原隊から武器・弾薬を支給され、中隊長に申告し、部隊長の指示する地点に集結するという、そんな現地除隊が一体あるでしょうか。 1956年12月3日、衆議院の「「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」(注)において、5人の参考人が呼ばれました。 (注)この議事録は、インターネットで「衆議院会議録情報 第025回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号」として見ることができる。 元第1軍司令官・澄田賚四郎は、次のように証言しました。 「私は全員帰還の方針を堅持し、あらゆる努力をしたつもりでおります。」 「各部隊の現場を回りまして、内地帰還は全員するのである、ただ、特別の希望があって残る人は、これはあるいはやむを得ぬかもしれないが、それでない限り、軍としてできるだけの人数を連れて帰らなければならぬし、また帰るべきだということを、各部隊のおもな駐屯地は残らず回りまして、説明して歩いたのであります。」 (澄田司令官が各部隊を回ったというのは、1945年12月でしたが、このとき訪問を受けた側の証言があります。当時第3旅団の大隊長でその後山西に残留した相楽圭二・元大尉は次のように書いています。「私が残留意思を固める前の昭和20年12月、澄田司令官が太原から大同へ行く途中、北同蒲線が共産軍に爆破されて不通となり、忻県城内にあった私の大隊本部に一泊した折、軍司令官が「大隊長の残留意思がいまだ決まらぬからといって、折角ハラを決めた部下の残留意思をくつがえすことは罷りならぬ」と言って残留推進を命じた。」(全国山西残留者団体協議会編『山西残留の実相』その二)) 澄田は国会でさらに次のように証言しています。 「私自身は戦犯容疑者でありますから、直接の指導は山岡君をわずらわしたのでありますが、私はときどき報告を受けまして、あくまで帰還をするのである、帰還させるのであるという方針は堅持しておった次第であります。」 太原の攻防戦で死闘している将兵を前に、「2万の義勇兵を連れて救援に戻る」とぶち上げた総指揮官の“証言”はこのようなものでありました。 もう一人、参考人として呼ばれた山岡道武元参謀長は、次のように述べています。 「閻錫山軍は、日本軍の援助がなければ、共産軍に対してとうてい存続できないのです。このために、彼は最初から日本に対して自分が勝った国だという態度をとりませず、懐柔策で出てまいりました。 ここ(引揚援護局が事前に配布したパンフレット)に書いてございますとおり、閻錫山は(45年)11月ころから、なんとか日本人を残そうと工作いたしました。 その勧誘工作というのも、いろいろ手を替え品を替えまして、暮夜ひそかに菓子折りを持って個人個人を尋ねて行って、残らないかというようなことをやることも珍しくないように聞いておりました。 終戦後、軍の規律が戦前と違いまして、一部に飛び出してこられた方もある。そういうような日本人の勧誘と、それから中国人と、一緒に勧誘が行われたわけでございます。」 山岡は、閻錫山が残留を勧誘したことにすべての責任を持っていこうとしています。 この日、参考人に呼ばれた残り3名は、百々和元少尉・大隊副官、早坂]蔵元大尉・中隊長、小羽根健次元中尉・駐蒙軍司令部付でした。3人はいずれも、軍命はあったと証言しました。 百々和元少尉の証言―― 「あるとき師団に連絡に行ったところ、師団司令部内に特務団編成室、こういう部門ができておりまして、太田黒参謀がそこの主任となり特務団の編成をやっており、すでに特務団の編成図表までできているのを見せていただきました。」 「旅団長から、君たちは祖国復興のために、第1軍の後衛尖兵として残るのだから、しっかりやるようにと訓辞を受けて、特務団に参加しました。 個人個人が自願で残留したのではありません。計画されたものの中に、私たちが派遣され参加していったのであります。」 早坂]蔵元大尉の証言―― 「山西にいた日本の軍隊には、敗戦感というものがなかったのです。どうしてかと言えば、武装解除されなかったからです。元の日本の軍隊が、そのまま残りました。日々の行動も命令系統も元のままでした。 命令指揮系統が、日本軍そのままの機構で、兵士が果たして勝手に自願で残留できるでしょうか。それは絶対になし得なかったものであります。」 「先ほど配布されたパンフレット(引揚援護局が配布したもの)の中に、軍司令官、軍首脳が極力完全に内地に帰還させる方針を採られたというふうに述べられておりますが、そのような事実はありません。」 「当時の兵団長・山田三郎少将が、私に対して、お前は兵団の命令で残留に必要な人間だから残るように命ぜられて、私は残留しました。」 小羽根健次元中尉の証言―― 「私は終戦後、ここにおられる山岡参考人が北京の方面軍司令部に、太原の特務団問題について連絡に行かれたとき、北京において、山西に行って残るよう指示をされ、それで山西に残った者であります。」 「日本軍を残留させるために、昭和20年9月にその編成機構として、日本軍と閻錫山と共同で「合謀社」を設立しました。11月には山岡参考人が主体となって、各兵団の青年将校を集めて残留の意義を強調するとともに、また城野宏らに祖国復興のために残留を宣伝させました。」 「第1軍は、山西省の5個兵団に対し、特務団7個団を編成する命令を出しました。各兵団に特務団割当要員が下達され、軍の組織的な残留が行われたのであります。」 「各兵団は、たとえば独混3旅団、独歩14旅団のごときは、この残留部隊が3年間ないし5年間使用するだけの兵器、弾薬、糧秣等を持って、そのまま残留しておるという状況でありました。」 こうした証言に対し、引揚援護局長の田辺繁雄厚生事務官は、次のように答えています。 「私どもの方針と致しましては、軍の首脳部が第一線の将兵に対して、残留しろということを正式に命令することはあり得ないことである、と考えておるわけであります。」 この答弁に象徴されるように、厚生省・日本政府は、証言を裏付ける事実調査をしないで、頭から澄田・山岡らの虚偽の“証言”を鵜呑みにし、軍命令はなかった、という見解を取り続けました。兵士はみな現地で除隊し、その後自由意志で残留したのであるから、国は関知するところではないと言うのです。 こうした国の姿勢と処置によって、戦死した戦友たちの遺族補償もなければ、生還した私たちも恩給の対象から外されています。 ![]() 第1軍の山西残留計画は、北京に設置された日本政府連絡所の所長永山中佐の手を通じ、2部作成された報告書の1部が日本政府に届けられていました。日本政府は、この陰謀計画を知っていたのです。 もし、日本政府が関与して残留を決めたことが公になれば、これはポツダム宣言に対する重大な違反ですから、日本政府としてもたいへん困る立場におかれます。ですから、政府としては何としても「現地除隊」したと断定して押し通そうとしているわけです。 私たちは、政府のこのような判断を不当なものであると言い続けてきました。それは、単に遺族補償や軍人恩給の問題だけではありません。日本が戦争中中国で何を行ってきたか、事件の首謀者たちが帰国後何をしたか、を明らかにするためにも、この一大陰謀事件はきちんと解明されなければならないのです。 その意味で、この事件は半世紀以上も前に起こって、すでに終ってしまった過去の出来事ではなく、未解決の問題を多く残したまま現在に至っている事件であるということを多くの人に知ってもらいたいと思います。(完) 参考資料
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