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上野通夫さんは1927年(昭和2)9月24日、 大阪市 阿倍野で生まれた。1945年商業学校を卒業するも、大阪大空襲の直後で卒業式もなし。5年生の1年間はほとんど工場での勤労奉仕に明け暮れる。敗戦間際の 1945年4月15日満州製鉄に入社、父母の反対を押し切って満州に渡る。 1953年(昭28)に帰国するまで、満州に残り、その過程で八路軍に入る、という貴重な体験をされた。
商業学校5年生の時大空襲があってからというもの、どうしようもなくなってきます。物がどんどんなくなって来て、しまいには「雑炊食堂」なるものまでできた。私はもともと熱帯のジャングルに興味があって、マレー半島、スマトラ、ボルネオといったところに行きたかったんです。それで一年程マレー語習っていたのですが、戦争が激しくなって向こうに船が全然行けなくなって、どうしようかなと思っていたところに勤労奉仕していた工場に満州製鉄から募集がきたんですね。「満州はええぞ、食うもんはなんでもあるし、甘いもんも酒もあるから来い来い」と言われて、南方に行けないんだったら食い物につられて満州に行ってみようかと。応募したものは皆採用されましたけれどね。
それに満州は中学生にとって修学旅行に行くところだったんです。当時の満州は日本や上海と同じで、ビザもいらないし日本のお金も通用する。ところが5年生のとき卒業式も修学旅行もなかった。そんなわけで、修学旅行のつもりで満州に行ってこようかとも思って行ったんですけどね。就職の理由はそんな単純な理由でしたね。
また、満州がどういう国かなんてことは考えたこともないんです。満州で北京語が話されていることも知らずに満州語があるんだと思っていたんですよ。満州に行って聞いてみると、中国語をしゃべっている。ということでほんとうに認識不足もいいところでした。
東辺道を希望したのは、生まれたときから大阪なので、都会より山の中、田舎がいいなと思ったからです。通化の東辺道支社から5〜6時間かかりましたが、本当に静かでいいところでした。五道江採炭所というところで日本人は家族あわせて300人ぐらいが、日本人だけの集落に住んでいました。作業員は全部で5000人ぐらいおったようです。日本人以外は現地の人間を使っていました。その中には河北省あたりから連れてきた百姓やら、強制的に連れてきた農民や捕虜なんかが入っていたのではないでしょうか。
採炭所の所長が目はしのきく人で、中国人をおいておいたら危ないと、戦争が終わったから故郷に帰ってもいいと金を渡して早々に送り帰したんです。そのお陰で略奪も暴行も受けずに無事に暮らすことができました。私たちのもう一つ山奥の人たちは敗戦後襲撃されて身ぐるみはがれて、麻袋を着て出てきた人も多かったようです。
満州は確かに食べる物は豊富にありました。採炭所にも専用の農場があって、とうもろこしでも山のように作っていました。
それに、満州では内地人に対しては100%〜120%が辺地手当として支給されていました。200%の所もあったんです、辺境では。危険、不便手当てでしょうね。但し、これは内地から来た日本人だけで、朝鮮半島の出身者は日本人の名前がついていたけど、かれらは本給だけ。当時唯一の鉱山学の専門学校、秋田鉱專出身の朝鮮の人が本給80なん円。それに100%、200%足せばいい給料になるんですが。朝鮮半島出身者には在満手当は支給されていなかったですね。そこらも恨まれている理由じゃないですか。
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