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5 帰国を断念

 1946年8月末、国共一時停戦で日本人社員の大部分は家族共々梅河口駅を経て日本へ帰国しましたが、私は帰国を断念しました。父母と喧嘩までして渡満したのに、それに餞別400円もらって、1文もなしに乞食みたいなかっこうで帰るのがいやだったのと、梅河口から鉄道が切れていて、その先は国民党支配地域と八路軍支配地域の間を歩かなくてはならない。たくさんの荷物かついで歩いたらへたばってしまうと思って。私はもともと喘息持ちであまりからだが丈夫ではなかったので、そのうちまた帰れるだろうと思いましてね。その後どうなるかなど考えなかったのです。
 2月3日のあとかな、野坂参三の日本人民解放連盟の人間が一人だけきてました。いろいろ言ってましたけど、新しいニュースは知らなかったですよ。満鉄、満映なんかには日本を追い出された優秀な連中がたくさんいましたから、そういうのを組織して解放連盟の正規部隊にしたんでしょう。そういう人たちも日本の状況は知らなかったですよ。あるいはその人達は本当のことを短波放送で聞いて知っていたかもしれないけど、教えてくれなかったですね。ただ日本がアメリカに占領されたということだけは教えてくれました。
 ということで炭鉱に戻ったんですが、働くところがない。結局、職場には戻れず再び通化に出ました。通化で解放連盟の支部までいって、頼みます、と声をかけた。それが解放連盟との接触です。住むところがないので連盟の事務所に居候したんです。ここで当然、社会主義教育を受けたはずなんですが。しかしもともと、マルクス主義がなにか、資本論がなにか全然知りませんでしたからね。ソ同盟共産党史とかも教えてもらったけど、たいして頭に残っていませんね。


6 八路軍へ

  国共の内戦が激しくなり、梅河口も国民党に占領されたので朝鮮国境の臨江市に撤退。そのとき解放連盟の世話で東北民主聯軍遼寧軍区後勤部に入隊して倉庫番の雑役夫となりましたが、身分は兵士と同じで1ヶ月の小ずかいは高粱2斤。
 東北民主聯軍というのは林彪の第四野戦軍が主になって満州のいろいろな武装勢力を寄せ集めて作った軍隊で、日本軍や満軍の武器を収集して組織してました。民主勢力の連合ということで名付けられ、総司令官は林彪。政治委員は李富春かな。人民政府主席が高崗、あとで殺されましたね、毛沢東に。
  この臨江市も国民党軍が攻めてくる、というので着いたあくる日は撤退の準備。その時八路軍に徴用されていた日本人は30人から40人ぐらい、開拓団の婦人連中とか、家族連れの人もおりました。ミシン工とか裁断工とか。撤退した所で被服廠を作る予定だったんですね。最初に着いたのが蟻河村。ところが川に橋もないような所で、とても工場なんかは、ということで12月松樹鎮村に移動、そこで正月を過ごしました。そんな所でも農民が自警団を作っている。銃は三八銃を持っているが弾がない。こちらは軍隊、弾を分けてやったりすると猪を撃ってきて、猪の肉の餃子を食わせてくれたりしました。その当時の八路軍の武器はバラバラで銃も三八式、チェコ製など、いろいろ。しかし弾がない。弾は貴重でした。それにしても猪がとても多いとこでしたね。


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