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上野通夫氏 第2回 4.敗戦後の満州〜6.八路軍へ


7 炊事班へ

  47年1月、再び馬車を連ねて山道を移動、撫松県城に入りました。私たちは遼寧軍区だったんですが、撫松に遼東軍区の後勤部がありました。倉庫も一緒、倉庫番がそんなにいらなくなった。遼東軍区の倉庫番も中国人でちゃんとしたのが3〜4人いましたからね。「日本人の子供みたいなのはいらない、行くところがなければ炊事をやれ」と言われて、炊事班はかなわん、と思い本当にやめて逃げようと思いました。ところが撫松から臨江に出ていくのに冬、2〜3日かかるんですよ。それこそ何もない虎の出そうな密林ですからね。一週間ぐらい一人でストライキやったんですけど、しょうがない、諦めました。給料は八路軍兵士だから一番安い。衣食住は保証してくれます。ところが小づかいは1ヶ月高粱2斤、それを金に換算して小づかいくれるんですよ。当時、日本の兵隊の小ずかいも1円85銭と言われてましたが、それと同じようなもんですね。タバコ買ったり、甘いもん買ったり、それぐらいしか使わなかったですね。ところが衣服廠の人達は工員なんですよ。兵隊は志願してきたんだから我慢しなけりゃいけない。工員は働くために来てるんだからちゃんと給料を払わんといけない。女の子でも高粱100斤とか150斤とかもらうんですよ。彼女たちは皆金持ち。こちらは炊事班にまわされ、災難でした。それに八路軍は夏になると主食代はくれるんですがおかず代がでない。だから2ヶ月間おかず代をかせぐのにいろんなアルバイトをしないといけない。ボタンの穴かがり、靴底の切り貼りとかやらされましたよ。「なんで一番安い我々がこんなアホなことせなあかんのや」といったら、「おまえら名誉ある革命の戦士、人民のために働いているんだ」言われて、「そうですか」と言うしかなくてね。そういう気持ちをいまの幹部連中がもっていたらたいしたもんですが。あきませんね、のどもと過ぎれば、ですかね。
 しかし総じていえばその当時、まだわりと八路軍は平等主義が残っていましたね。中隊長は別だったけど、以下は全部同じ待遇でした。中国語で小鍋飯と言うんですが、同じ釜の飯でした。ぼくらも好きなこと言ってました。お前たち日本人も被害者、おれたち中国人も一緒、そういうやりかたでやってました。
 その後、文化大革命になったら、むちゃくちゃになったようですが。お陰さまで僕らいじめられることもなくて、大きな顔してました。一応革命の同志と言うことで、やってましたけれど。革命がなんだ、なんてことも知らないでね。

 
8 天皇制教育との葛藤

  天皇制教育との葛藤はあんまりねー。私は天皇をそんなに信じてなかったですね。神社でおじぎしないで、怒られたこともあります。満州に行くと各事業所に神社があるんですよ。知らん顔して歩いていたら青年団の連中に殴られたこともありました。私はどこの馬の骨を祀ってあるのかもわからんで、なんで頭下げなあかんのや、という考え方でしたから。
 私ら子供の時皇太子が生まれましたよね、今の天皇ですが。その時、皇太子の東宮を建てるのに大阪駅に予定しておった鉄骨をみなそっちにまわされて、大阪駅、3階建が2階になったことがあるんですよ。なんであんなしょうもない事するんや、建物すっきりすましておけばいいやないかって、陰でぶつぶつ言うてたんですが。当時そういうことを大きい声で言う人がいなかったですからね。うちの親父なんかも召集されて、陛下、陛下いうてね。
 だけどまあ、負けた後田舎道で百姓どもに“小日本”とか“日本鬼子”とか言って石を投げられたりした時、頭にきてから「もういっぺん巻きなおしてきてやるぞ」なんて言ってましたけどね。それが藤田大佐の場合実力行使になったんでしょうけど。


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