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9 民会、消費合作社

 48年8月後勤部がチチハルに移動することになり、北満の寒さを恐れて退役しました。9月再び通化へ戻り、勤労奉仕で習得した腕を生かして自動車修理工場で働きました。その工場がハルピンへ移動することとなり49年2月に退職、3月瀋陽へ行き日本人会の野口氏の世話で日本人消費合作社で働くことになりましたが、しばらくしたら日本人のいないところで働きたくなって、民会=日本人民会の紹介で瀋陽市政府企業局財務科の試験を受け採用されました。
 瀋陽の民会は国民党の時代からあったようです。八路軍が来てからは悪い奴らはぶちこまれましてね。新しい民会にはハルピンあたりから解放連盟の若い積極分子が代わりにきてました。私が行った時には3人ぐらい――島野君、阿部君、ともう一人、私より2つぐらい上だったかな、旅順工大のような優秀な学校出た連中が、解放連盟の教育を受けて民会の仕事をやってました。日本人は1000人やそこいらいたんじゃないですか。
 消費合作社は人民政府の援助もあって日本人に必要な物資をできるだけ集めていました。例えば中国人の店だと米などあまり置いてない。日本人は米がいる。正月にはお餅も欲しい、日本酒もいる。そういうことのために人民政府の援助でできたのが消費合作社ですね。民会が主導して作って日本人に必要な物資を調達した。食べる物が違いますからね。高粱や油の販売もやってました。そういうのは合作社の経営のため政府がまわしてくれたんだと思います。それだけ日本人が残っていたということですね。正月用の餅も合作社で搗いてね。病院もあって日本人の医者が一人おって日本人専門にみてました。名前、忘れましたが、53年帰る時もやってました。どうなりましたか。
 話は財務科に戻りますが、科長も係長も日本語が上手でしたね。日本の役所か企業におったんでしょう。科長の名前、覚えています、王さん。「日本語うまいね」言うたら、「当たり前だよ、僕は特級通訳だよ」と言ってました。インテリは日本語しゃべれる人多かったですが、行政の幹部クラスは特に上手だったですね。そこは日本人が本当に少なかったです。診療所に池田英雄さんと奥さん。奥さんは看護婦でその二人きりでした。満州でしか通用しない医師でしたが、日本人がいないぶん気楽でしたね。



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