柳さんは1921年(大正10)の生まれ。1941年(昭和16)1月に召集されて中国山西省に渡った。1945年、日本の敗戦後山西省の軍閥閻錫山(えんしゃくざん)の軍隊に編入され山西に残留した。1949年、閻錫山は共産軍との戦いに敗れて逃亡、柳さんたちは“捕虜”となった。1954年(昭和29)に帰国。先回の山下正男さんと同じ「山西残留」の体験者である。
しかし、柳さんは戦争中も戦後も戦闘に参加したことがほとんどないという。戦中は日本軍と閻錫山との間で取引があって戦闘が行なわれず、戦後は柳さんが中国語を話せたために戦闘場面にほとんど関わるところがなかったという。したがって、戦闘に関わるような話は全く伺えなかった。召集されて戦争に行った人の中でも特異な体験をされているように思われる。
ぼくは大正10年1月26日、京都市太秦(うずまさ)に生まれました。松竹撮影所のある近くで、隣には映画監督の溝口健二が住んでいました。父は第一工業製薬の創立者の一人でしたが、ぼくは御室(おむろ)小学校を卒業後、親元を離れ山形県の米沢にやられました。両親が米沢の出身で、京都の贅沢な生活に息子を慣れさせてはいけないという配慮から、電灯もラジオもない田舎へ行かされることになったのです。
米沢工業高校(現山形工業大学)の応用化学に進みましたが、在学中に学徒動員となり、大阪の中山製鋼所で勤労動員に就きました。この学徒動員中に徴兵年齢に達し、1941年1月に召集となりました。
――日本にいる間に中国人と接するような機会があったのですか。
ぼくのいた工業高校には、当時は満州国から留学生がたくさん来ていました。ぼくは入るとすぐに彼ら留学生と親しくなりました。その頃は軍事教練が盛んで、軍から将校もやってきてかなりの時間が教練に割かれていたのですが、どういうわけかそれには留学生は参加させてもらえないんです。これはおかしいのではないか、ぼくは将校に、「どうして留学生だけ差別するのか」と意見を言ったのです。ところが、これが“留学生の肩を持った”ということで軍からマークされることになり、その後軍隊に入ってもずっと付いて回りました。ぼくは“要注意人物”ということになってしまったのです。
当時は高等学校を出れば、幹部候補生になる資格があったのですが、ぼくは最初から外されてしまいました。
しかし、満州国からきた留学生たちと親しくなったことで中国語をマスターしようと思うようになりました。それで、勤労動員中の大阪で毎日新聞社主催の中国語講習会に週3日、1年間通いました。ぼくの軍隊での生活には、学生時代の中国人留学生との接触と学徒動員中に中国語を習ったことが大きく関係していると思います。
そして、中国語を習ったことでいっそう中国が好きになりましたが、それが軍隊でもその後の人生においてもぼくの運命を決めたようなところがありますね。
――“留学生の肩をもつ”というのは、いわゆる左翼的思想の持ち主と見られたということでしょうか。
そうだったのかもしれません。しかし、左翼的活動をしたということは一切ありません。当時は厳しい時代ですからね。むしろ、ぼくはごりごりの軍国主義者だったですよ。