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入隊したのは、第36師団(通称「雪部隊」)でしたが、この雪部隊は弘前、秋田、山形の各歩兵連隊を基幹として構成されていました。ぼくはその「山砲三十六連隊」に編入されましたが、さっき言ったように“要注意人物”でしたから、軍隊ではいつも雑役ばかりやらされました。 最初に行ったところは、山西省の楡次(ゆじ)というところでした。太原に近いところです。 山西省は軍閥の閻錫山が支配していましたが、彼は日本に留学して陸軍士官学校で学んで帰ってきていましたから、日本贔屓ですし、彼の軍隊も日本の組織をそのまま取り入れていました。 山西省に駐留した日本の軍隊は、北支方面軍第一軍といいましたが、その司令官と閻錫山とはよく連絡をとりあっていたようです。だから、ぼくの行ってたあたりは殆ど戦闘がなかったです。 しかし、日米開戦となった昭和17年ころになると南方戦線が厳しくなってきましたからね、北にいる部隊はみんな南方へやられようになってきました。僕らの「雪部隊」も昭和18年10月南方へ向かうことになったのです。 ところがぼくは、またこれからも外されてしまいました。お前は、残留部隊として残れと言われた。悔しくてね、部隊の後を追っかけたですよ。広州から船が出ることは分かっていたので、そこまで追っかけていって軍の宿泊所を探し出してやっとたどり着いた。そしたら、お前は名簿に載ってないから帰れ、と言うんです。 ぼくは追い帰されたお陰でこうして生きているけれども、南方へ行った連中は全滅に近かったです。 ――戦争中、日本軍の中にいて、中国人と接触するというようなことはありましたか。 日本軍のなかにも中国人を使っていましたからね。食事を作ったりするのはみな中国人でした。その中には八路軍の工作員も入っていたと思います。 僕は中国語が話せたから、こういった人たちとも口をきいていました。だから、彼らとも気持ちの通じ合うところがあったですね。向こうも僕のことを、柳はほかの日本人と違うと言ってました。 |
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