――終戦はどこで迎えられたのですか。
河津(かしん)というところで終戦でした。黄河に近い辺鄙な田舎街で、河の向こうは陝西省です。
我々日本兵は戦争が終わったことを知らなかった。日本軍に手伝いに来ている中国人から、“戦争はもう終わった、日本は負けたよ”と教えられて初めて敗戦を知った。僕らに教えてくれたあの中国人は共産党の工作員だったかもしれません。
太原には日本の第一軍司令部があって、そこに閻錫山が入ってきたんだけれども、司令官と閻とが話し合って、我々は閻の軍隊に編入されることになったんです。
閻錫山は、日本の軍隊がいることによって自分も力を保てると思っているから、日本の軍隊をそのまま使おうとしたんです。だから、日本軍に残ってほしいわけです。
そのあたりの交渉があって、日本軍は一応解散して、帰るものと残るものに分かれたのですが、僕らは残る方になったのです。
だから、ほかの地域にいた日本軍とちがって、僕らの部隊は温存されたんです。
そんなわけで、終戦で敵に捕まったというような感覚は全くなかったですよ。
――日本軍は結局2600人が残留したそうですが、そのうち550人もの人が亡くなったということですね。
内戦は4年近く続きました上に、結局勝ち目のない戦争でしたからね。しかし僕は、この共産軍との戦争でも後方に廻されたんです、中国語がしゃべれるということで。だから、戦闘行為には一回も参加していないです。
日本軍の残留した兵士は共産党側の捕虜ということになったわけだけれども、しかし共産党は僕らを捕虜扱いしなかったですね。
解放軍が入ってきたとき、ぼくは、閻錫山の軍隊の幹部の家に隠れていたんだけれども、彼らはやってきて、入り口のところで、「ここにリウ・バンナン(柳邦男の中国音)がいるはずだ、何も心配しないでいいから出てきなさい」と言うのですよ。知ってたんですね、私がそこにいたことを。しかし、決して家の中には入ってこないで、外から呼びかけるだけなんです。
共産党は親切でしたね。自分たちは稗や粟しか食べてないのに、こちらには「食うものに困ってないか」といって米や卵を届けてくれるんです。この精神には本当に驚きました。
僕の経歴を見て、応用化学を出ているということから、八路軍が接収した国民党の工場で、中国人の工員の指導をやらされました。山西省は鉱物資源の豊かなところで、戦前から日本人が進出して工場を経営していました。戦争で敗れて日本人が引揚げてしまってからは閻錫山がそれらを接収した。今度は閻錫山がいなくなって共産党がそれを接収した、というわけです。僕らの工場は、石鹸を作るのが主な仕事でしたけれども、そこでぼくは「労働英雄」にもなりましたよ。
それにしても、中国語をやったことが、こんな風に役だつとは思いもかけなかった。