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橋村武司氏 第2回 3.終戦

3 終戦

 伯父はこのころハルピン近郊の阿城(あじょう)というところにいましたので、中学の最初のころそこから汽車通学をしました。しかし、汽車の本数も少なく不便で通いきれませんでした。それで、母のいるハルピン市内靖国街の中央銀行支店の社宅に移りました。社宅ですから、形の上では職員待遇だったのでしょうが、実際には母は支店長のお宅のお手伝いさんのようなことをやっていたようです。支店長は別所さんといいましたが、子供は女の子が一人(マーコちゃん)だけでした。ソ連軍が入ってきた後、別所さんは行方不明になりましたが、どこかへ連れて行かれたのではないかと言われていました。  

左が中学1年の橋村少年、右がマーコちゃん
靖国街はハルピン飛行場のすぐ近くにありましたので、ソ連軍が満洲に侵攻した8月9日あたりから騒がしくなりました。ロシアの落下傘部隊が降りてくるという噂が立ちまして、はやく移動しろということになり、私の記憶では8月12日に市内にある中央銀行支店に移りました。
 ここにいたときのことですが、国民党がやってきて銀行の前に掲揚していた日の丸の国旗を引き摺り下ろし、代わって晴天白日旗を立てました。すると日本軍がやってきて、また日の丸に差し替えた、ということがありました。
 8月15日の「終戦の詔勅」を、私は母のいた元の銀行の寮で聴きました。銀行としてはこの寮を根城にして籠城しようと考えていたのではないかと思います。ここに米袋を運び込んで床下に隠しました。それで銀行から寮に移ることになったわけですが、さてどういうふうに移るのか、この間はいろいろな噂が飛び交い、どうするのが安全かはそれぞれが判断してばらばらに行動しました。
母と私、それに母の友だち母子の4人は、みんなと別行動をとりました。結果的には、これは大失敗でした。私たちは荷物をリュック一つにまとめて、危ないといわれている大通りを避け迂回して移動したわけですが、途中道里公園の入り口で中国人に取り囲まれてしまいました。20人ぐらいいたと思いますが、あっという間に荷物を全部取り上げられてしまいました。女子供四人で何の抵抗もできません。無一物になって寮に着いたのを覚えています。これはたしか14日のことでした。
 一方で、危ないと言われるのをあえて無視して、人力車に荷物を積んで市中を堂々と移動してきた人たちがいましたが、こうした人たちが反って助かったのです。皮肉なもので、迂回作戦をとったほうが失敗したのです。こうしたいろいろな情報が錯綜しているときにどれをとるかという判断は非常に重要だと、このとき思いました。また、情報の大切さも知りました。


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