logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


橋村武司氏 第3回 4.残留と帰国と

4 残留と帰国と

 満鉄はソ連軍に接収されましたが、当面元の体制のままでソ連軍に協力することになり、満鉄社員はソ連側から雇われる形で仕事をしていた人が多かったのではないかと思います。
 1946年の初め、母は伯父から懇願されて、伯父の親友であった三井軍一氏一家の世話をすることになりました。三井氏は終戦のときに夫人を亡くし、子供4人を抱えていましたが、そのなかの一人は身体未熟児でした。そういう事情があって母も断りきれなかったようです。沙曼屯(しゃまんとん)にあったこの三井氏の家に母と私が移り住み、妹はそのまま伯父の家で暮らすことになりました。
 三井氏は南満洲工業専門学校(南満工専)を出た人で、満鉄のハルピン工務区の区長をしていましたが、終戦のときにはそこを離れて鉄道の青年学校――いわゆる後継者を養成する学校――の教頭先生をしていました。戦後私たちと一緒に住むようになってからは、仕事もなく、家でぶらぶらして、たまに会合に出て行くといった生活でした。
 私は母の取った行動に不満でしたし、一方日本へ帰りたいという思いが強く、この頃から「残留日誌」をつけはじめ、そうした気持を日々日誌に書きつけました。
 46年の8月、待ちに待った日本人の引揚げが始まり、伯父の一家も帰ることになりました。三井の家で母と私も帰るつもりで荷物をリュック一つにまとめて出発を待つばかりとなっていました。ところが、土壇場になって三井氏は帰国出来ないと言われたのです。
 三井氏がどうして残留させられることになったのか、私は直接理由を聞いたことがありませんが、推測するに元々工務、つまり土木関係の技師でしたから、戦争であちこち破壊されている鉄道線路を修復するために残されたのではないかと思います。彼の下にいた部下で残る人もいたようですから、工務区長であった彼も残るよう説得されたのではないでしょうか。これも聞いた話ですが、最初は2年間残ってほしいと言われたそうです。
 そんな次第で、妹二人は伯父の一家と一緒に帰り、母と私が中国に残留することになったのです。


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007-2009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.