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橋村武司氏 第5回 6.工場で働く〜7.帰国の噂から瀋陽へ

6 工場で働く

  私が一番最初に働いたところは紡績工場でした。その工場は大連にあった工場をそっくり持ってきたということでした。ですから、機械がばらばらになってこちらに届いているわけです。僕らのやるべきことは、先ず移動の間に風雨に当たってできた錆を落とすことで、そしてきれいになった機械を組み立ててちゃんと動くようにするのが仕事でした。
 糸を紡ぐのは女性がやりましたので、僕らは機械のメンテナンスをやりました。こうした機械のことは夜学で勉強していましたから、それが役立ちました。
 その次に、カマス工場で働きました。むかし米を入れたりする袋がありましたでしょう、あの袋造りです。原料は最初ワラでしたが、しばらくして草に変わりました。
 この二つの工場の体験で、ハタ織の仕組みが大体分かりました。これらの仕事をしながら、私は必ず機械が自分に合うような改造を試みました。というのも、自分のペースと機械のスピードが合わないのです。若かったですから、手順を覚えるとどんどん先に進もうとするのですが、機械が追いついてこないのです。そこで、機械をどうしたら速く動かせるかということを考えました。カマスの仕事は出来高払いでしたから、多く作れば作るほど給料も増えました。しかし、ここにはそれほど長くはいませんでした。
 
第四軍靴工場時代。左から橋村、田中稔治、内河季司
次は、第四軍靴紡麻工場で働きました。八路軍の兵士は布靴(プーシエ)を履いていましたが、その材料になる麻縄を作るところでした。僕らの仲間の一人が先にここに入っていて、来ないかということで、この工場で働くことになりましたが、結果的にここには一年以上いることになりました。
 この工場には、青年部と少年部と婦人部とがあり、私は青年部に入れてもらい、工場の近くの宿舎に寝泊りしていました。私より小さい子は少年部でしたが、少年部の子供たちは基本的には仕事に就きませんでした。青年部とお母さんたちの婦人部が仕事をしましたが、その全体を統括していたのが、河野さんという指導員でした。
 この工場でも、機械の改造をしました。やはり、どうみても機械と人のスピードが合わないのです。私が速く踏んで廻すものですから、機械がガンガン回ってしまって縒(よ)りが掛かりすぎるのです。つまり、手のほうが間に合わないのです。そこで私は逆に発想しました。こちらをもっとゆっくり廻してやればよい。そうすれば、こちらの手の呼吸が間に合うと。そうしましたら、縒りもちゃんとできるようになりました。その結果、生産量は2倍になりました。
 生産量を上げたことで、私は「労働模範」にもなりました。このときは工場長から中国料理のフルコースをご馳走になりました。一つの円テーブルに12,3人いて、テーブルが3つほどありましたが、日本人は私一人でした。中国語は解りませんし、出てきた料理を私はひたすら食べました。フルコースは初めてでしたが、数えていたら20皿ぐらいは出たでしょうか。ところが、始めに食べ過ぎてしまっているので、後から出てきたものが食べられないのです。中国料理は美味しいものは後から出てくるということをこの時知りました。
 私はどうもこの種の仕事がこの当時から好きであったようです。ですから、ベルトをかけて廻すプーリンなんかも、木を丸く切り抜き、焼きゴテを当ててちゃんとベルトが通るように溝を自分で作っていました。径を変えれば当然スピードも変わりますから、自分に合った径を計算して、日曜日家に帰って製作しました。
 こういうことをやっているうちに、食っていくことについては自信のようなものができました。この時期はまた背丈がぐんぐん伸びた時期でした。だから、穿いてるズボンがすぐちんちくりんになってしまうのです。そのたびにお袋がぼやきながら先を足していってくれるのですが、色が違うものですからすぐ分かるのです。食べ物はよくなかったですが、この頃一番成長しました。だから、鶴岡炭鉱に行く前にはほとんど一人前の体格好になっていました。

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