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7 帰国の噂から瀋陽へ

  1949年夏のことですが、この軍靴紡麻工場にいたとき、突如帰国の話が持ち上がりました。私はすぐに母の所に行って、こんな帰国の話が出ているが知っているかと尋ねると、そんな話は聞いたことがないと言うのです。ところが、工場の人たちは、すでに全員が移動することになっているというのです。移動するのは他に目的があるわけではない、ただ日本に帰るためであるというのです。一日でも早く帰国し勉強したかった私は、自分だけ一人先に日本に帰るからといって、母と水杯をして別れました。そして、工場の人たちと一緒に、私は牡丹江からハルピンへ出、長春を経て瀋陽まで行きました。
 ところが、瀋陽に行ってみると、私たちは日本に帰るのではないことを告げられました。後の中日友好協会の秘書長をされた趙安博さんがこの時私たちの前に現れて、「皆さんは日本に帰るのではありません」といって、それぞれが身の振り方を考えるようにと申し渡されたのです。
 いまだにこの話はどういうことであったのか分かりません。しかし、後になって考えてみますと、中国側にとってはこの工場がもはや不要になってきていたのではないかと思われます。当初は、敗戦で北の方から着の身着のまま逃れてきた人たちを、救済するためにこの工場を作ったはずです。しかし、そうした混乱期も脱して、物資もかなりに出回るようになると、こうした工場は中国にとっても反ってお荷物になってきたのではないかという気がします。
 趙安博さんは、私たちの身の振り方の一つとして炭鉱に行くことを勧めました。青年部の多くの人は炭鉱行きに傾きましたが、私自身もここで炭鉱に行く決心をしました。炭鉱に行けば米の飯が食べられるというのが最大の魅力でした。指導員の三宅さんが、「君はお母さんが牡丹江にいるのだから、牡丹江に帰ったほうがいいのではないか」と勧めてくれましたが、私は水杯まで交わして別れてきている手前、おめおめと牡丹江に帰るような気には到底なれませんでした。
 かくして、青年部の男の人たちはみんな鶴岡炭鉱に行くことになりました。少年部の一部の人も私たちにくっ付いて炭鉱に来た者もいました。
 これは1949年の秋のことで、私は17歳になっていました。10月1日には中華人民共和国が成立し、国内はもうかなり落ち着いていました。もちろん、まだ貧しかったですけれども。
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