天水に行って、私もようやく学校に行ける身になりました。
私は友人の浦塘(うらとも)君のすすめで、中国人の鉄道関係者の子弟が通っている天水鉄路職工子弟中学校の初級2年に編入させてもらいました。この学校は、その名のとおり、鉄道従業員の子弟のために作られた学校で、初級中学校と高級中学校(高校)の併設校でした。
学校は、天水の城内から歩いて20分足らずのところにありました。ここに当時の学内の地図がありますが、ご覧いただけば分かるように、教室が一つ一つみな独立していて、教室の周りには樹木が植わっていました。そして、教室の両端には先生が常時座っておられ、なにか疑問があれば、すぐ先生に尋ねることができるようになっていましたから、それは恵まれた環境でした。
私は18歳にして中学2年生のクラスに入ったわけです。友人の浦塘君はハルピンで中国人の学校に行ってましたから、中国語がかなり流暢に話せましたが、私はまったく初めてです。それで、教室では私は一番後ろの浦塘君の隣に座って、彼の本を見ながら講義を聴きました。初めのうちは、先生がどこをしゃべっているのか全然わかりません。しかし、一月もすると、大体どの辺りのことを話しているか分かるようになってきました。半年もたつと、もう喧嘩ができるようになりました。実際、それぐらいにやらないと、生存競争も厳しいですからね。必死でした。
半年あまり経ったところで、私は飛び級試験を受けさせてもらいました。なんとか中国語も解るようになってきたので、初級の3年を飛ばして高級中学を受けたいと申し出たのです。幸い試験を受けたら通ったものですから、いきなり高校に入ることになりました。そこで1年半学びましたから、初級の1年と併せて、2年半中国人の学校に通ったことになります。
初めのうちは言葉を覚えるのに必死でしたね。最初は寄宿舎に入らないで、街なかの旅館から毎日通いましたが、その頃は電気がありませんから、家に帰ると蝋燭・ランプをつけて夜中まで勉強しました。日本人の仲間もみんなよくやっていました。それぐらいやったから、なんとか付いていけたのではないでしょうか。また、新しくできた中国人の友人たちも、日本人に対する物珍しさもあったのでしょう、付きっ切りで教えてくれました。
私にとって、中国語を覚える上で一番有効であったのは、書いて覚えたことだと思っています。本なんかあまりありませんから、稀少なものをみんなで廻し読みするのですが、自分に番が回ってくると、本を丸ごと書き写しました。なかでも特に役に立ったのは、慣用句集のようなものを書き写して覚えたことです。これで、本を読んでも大体何が書いてあるか解るようになりました。
教室では二人ずつ机を並べて講義を受けましたが、私の隣は陳光浦さんという女性でした。歳は私と同じだということでしたが、老成していて頭も切れ、班長をしていました。彼女は文系が得意でしたが、数学は苦手でした。私はちょうど反対でしたから、お互い助け合うことができました。(彼女はその後西安の西北工学院に進みましたが、卒業後の分配先が青海省の西寧にある西寧汽車公司というところになりました。生活環境の厳しいところですから、彼女にとってはたいへんであったと思います。近年会いますと、そうした苦労が滲んでいるような印象を受けます。結局、その会社は車を生産する場というよりも、むしろ「労改」(労働改造)の場に使われていたようです。)