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 しばらくして私は寄宿舎に入りましたが、これは勉強だけではなく生活そのものが彼らと一緒ですから、中国語を進歩させるうえでは又とない環境でした。
 私が今でも感心しているのは、「化学」の勉強に関して、実験室が常にオープンになっていて、いつ行っても実験できることでした。先生もおられて質問すれば教えてくださいましたが、原則生徒が自由に実験できたことです。後になって聞いたことですが、この化学の先生は、その分野において中国でも有名な田海雲先生であったそうです。
 学業成績で私は一つだけ百点満点の百点をもらったことがありました。それは製図でしたが、これには理由がありました。私の家にはコンパスや定規等の製図の道具がたくさんあったのです。私はもっぱらそのせいだと思っていますが、百点をもらったのは、この一つだけでした。
 
天水時代の仲間。前列左より外崎則次、小荒井迪雄。後列左より橋村、浦塘康雄。
全校生徒300余名の学校でしたが、そのうち日本人は20名ぐらいでした。私たち日本人は自分たちの主張を容れてもらうために「日籍班」を作り、浦塘君を会長に選出し、私が書記になりました。ところが、その後浦塘君が肺炎に罹って休学することになってしまい、私が年長ということで、会長を引き受けることになりました。浦塘君が学生諸君の面倒をよくみてくれていたので、後任の私にとっては荷の重い日々でした。
 日本人は中国人の生徒たちからいつも注視されていますから、われわれは僭越な言い方をすれば”日本人の代表“といった意識で行動しました。特に私は年を食っていますから、そういう意識をもたざるを得なかったですが、そのため、変なことはできないという自意識過剰になっていた面がありましたね。
 一方、学校側も我々日本人に配慮してくれていろいろやってくれたと思います。生徒会の一つに文芸科なるものがありましたが、高1のとき私は日籍班専任の文芸幹事に推薦されました。日籍班の得意な種目はロシア舞踊、ヨーロッパ舞踊とか日本語の歌で、カチューシャやドナウ河の小波のメロディーに合わせて踊るのです。珍しかったこともあって学校で結構もてはやされ、あちこち引っ張りだこでした。
 文芸幹事を1年やったあと、高2では学習幹事をさせられましたが、これは大変でした。クラスごとに討論の課題を与え、そこから上がってきたレポートをまとめて校長に報告するというのが幹事の役目です。当時は朝鮮戦争の真っ最中ですから、「抗美援朝」運動が盛んでしたが、『人民日報』を見ると毎日のようにその話が載っていました。私たちの学校にも、朝鮮戦争で活躍した朝鮮人の英雄がやって来たことがありました。盛大な歓迎会が催され、日籍班にも出演の要請があって私たちはオールスターキャストで歌や踊りを披露しました。
 学習幹事であった私は、新聞からしばしば朝鮮戦争に関係した討議課題を選んで、それを各クラスに下ろしていました。しかし、あまり変なテーマを選べませんから、一生懸命新聞を読み、レポートに目を通しました。このことは、私にとっては大変勉強になりましたが、学校としては、私の力不足を承知のうえで、学習幹事の大役を割り当てた、つまりそういう機会を日本人に与えたというのが実情であったのではないかと思います。
 私が学校に行きだして1年ぐらい経ったころ、それまで20名ぐらいであった日本人生徒が、一挙に60名ぐらいに増えたことがありました。天水に行ったとき、日本人小学校はすぐにできましたが、日本人中学校はできませんでした。それで、日本人小学校を卒業した生徒がどっと天水鉄中に入ってきたのです。彼らはまだ子供ですし中国語を話しませんから、同じクラスに集められたようで、ほとんどすべてが日本人で中国人はまばらにいるといったクラスができていました。
 ところが、この頃になると、日本人の中学を作ろうという話が出てきて、鄭州に日本人の中学ができました。それで、小学校から天水鉄中に来た生徒たちは一斉に鄭州のほうへ移っていきましたから、彼らは数ヶ月いただけで、また元の状態に戻りました。
 
褒美の日記帳
私はスポーツが大好きですが、主にやったのは陸上の中距離でした。毎日練習をしました。中国は時差がないから、奥地のほうは朝起きると真っ暗なのですね。その暗い中を毎朝30分ぐらい走っていました。
 52年の10月に鉄中で選手選抜の競技会が開かれましたが、これは上海で開催される鉄路全国大会の予選会でした。私は1500メートル1本にしぼって参加しました。その日のいでたちは、母の手縫いの開襟シャツに臙脂色のパンツ、白足袋を履き、太ももやふくらはぎにはヨードチンキをたっぷり擦り込んで臨みました。結果は第1位でゴールし、ご褒美に記念のバッジと紅星日記帳をもらいました。
 これで当然上海の全国大会に参加できるものと胸を膨らませていたところ、ある日日本人は参加できないと連絡が入りました。この時ほど日本人であることの不運を思ったことはないですね。私の代わりには、早朝ランニングのライバルであった張天真君が代表になりましたが、全国大会における彼の成績はあまり芳しくありませんでした。私が参加しても、結果は同じであったろうと思います。やはり、全国には通用しなかったようです。
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