天水鉄中で私たちの印象に強く残っている先生に、王書荊先生がいます。NHKテレビで放映されたドキュメント番組「留用された日本人」でも、江見(旧姓 浜田)和子さんが王先生のことを語っています。江見さんは王先生のような方に出会ったことで、鉄中での学校生活が強烈な思い出となり、今中国に住んで日本語の教師をしています。実際、王先生は私たち日本人生徒のことを非常に気に懸けてくださいました。帰国のとき、王先生に挨拶に行きましたが、別れるとき先生は涙を流されて、私たちも辛かったです。当時の中国にもこのような先生がいらっしゃられたことは、特筆すべきですね。私の印象では、当時の先生方はみんな素晴らしかったです。
天蘭線の建設は国家プロジェクトでしたから、これに携わった中国の人たちは、当時全国から動員されて来た優秀な人たちであったと思います。私の友人の父上は、上海交通大学を出た人でしたし、また別の友人の父上は広東からわざわざ動員されて来ていました。
こういう人たちの子弟が行っている学校ですから、レベルが高かったと思います。進学率でいいますと、90数パーセントが進学でした。
もう一つ特徴的であったのは、ほとんどの生徒が理工系を目指していたことです。それこそ95パーセント近くが理工系を目指していて、文系に行くというのは、ほんの数パーセントしかいませんでした。
当時の中国では、仕事もそうなんですが、自分の意志で進学する学校を決めることができません。職業も進学する学校も、すべて国家によって決められていました。私の同級生たちのほとんどは西安にある西北工学院とか西安大学とかへ行っていましたね。
しかし、どういう社会でも要領のいい人間はいるものですが、なかには天津の高校に転校して、そこから北京大学へ行った者もいました。「うまいことやったな!」ということが、あの社会にいると分かるのです。
この学校のクラスメートたちとは、私たちは55年以上経った今日もなお付き合いを続けています。しかし、文革中だけはさすがに交信が途絶えましたね。あの頃は日本人と付き合っていることが分かれば、糾弾され酷い目にあったわけですから。
天水時代の物で私にとって一番貴重なものは、この手帳です。これだけが唯一ポケットに入れて持って帰れたものです。ハルピンからつけていた残留日記は、帰国のとき持ち帰ることができないと言われ、燃やしてしまいましたが、この手帳はポケットに入れていて何か文句言われたら捨てようかと思っていましたが、途中ひかかることなくそのまま持ち帰れました。授業時間表や新聞からの抜書き、学習幹事のときに討議内容を考えたこととかを、あるものは中国語であるものは日本語で書いていますが、私にとっては当時を思い出すことのできる貴重なものです。
天蘭線は1952年の夏に完成しました。当初は3年くらいかかると言われていたそうですが、それを1年くらい前倒しして完成させたので、毛沢東主席からお祝いの言葉が届けられたと聞きました。
天蘭線完成の式典は1952年8月23日、蘭州で行なわれましたが、私たち日籍文芸団の学生も式典に参加しました。私がハーモニカを吹き、女子4名ばかりが踊るというスタイルですが、いつもやるロシア民謡がここでも随分拍手喝采を受けました。
蘭州は、天水からわずか350キロしか離れていませんが、異国の街に来たような印象を受けました。イスラム教徒が多く、お店に並んでいる物が違いました。天水ではあまり見かけないケーキのようなお菓子がたくさんありました。それに、干し葡萄を始めとする干し果物がたくさん並んでいました。このような物はおそらく新疆あたりから入ってくるのでしょう。哈密瓜(ハーミーグワ)なども干したものが売っていました。
天水は漢民族がほとんどで、少数民族の人たちはごくたまにしか見かけませんでしたが、蘭州は漢民族以外の人たちが多く、着るものも違っていました。西北における重化学工業の中心地であったようですから、都市の規模も天水よりもずっと大きかったです。
現在、天蘭線は、江蘇省の連雲港からオランダのロッテルダムを結ぶ、1万数千キロのオリエント鉄道の要衝となっています。